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エチオピア旅行記1 アクスム・ラリベラ・アジスアベバ編

2月22日〜3月17日

●南京虫と私●
初めて出会ったのは、いつのことだっただろう?
あれは確かもう1年近く前のネパール、チトワンでのことだった。二晩ほどそこに滞在したあと、私の体に点々と赤いぶつぶつができている。しかもとてもかゆい。しかし、薬局で買ったインド製の薬で、そのぶつぶつは、しばらくすると治った。
、2度目の出会い、エジプトのアスワンでも、エジプトの薬でこともなく治っていった。

エチオピアは南京虫がすごいよ」という噂は、何人かの旅人から聞いていた。ああまたかゆいんだ、ぶつぶつになる、いやだなあ、とは思ったけれど、そんなに真剣に対策を考えていなかった。薬塗れば治るか、くらいに思っていた。虫対策のために、ナフタリンを足首に巻いている人がいたという話も笑って聞いていた。しかし、実際にエチオピアに入ると、私はもう笑ってはいられなかった。
 まず、ゴンダールで同じ宿に泊まっていた男の子が、腕がかゆいといっていて、見ると赤いぶつぶつができていた。「南京虫いるんだー。でも私はまだ大丈夫。」と思っていたが、2日もすると、気づかぬうちに肩に山脈ができていた。肩をたくさんやられたので、そのぶつぶつがかたまっていて、山脈みたいにぼこぼこになってもりあがっているのだ。それからのエチオピアでの日々は、かゆくない日がなかったといっても過言ではないくらいだった。
 デバルクからシミエン国立公園のトレッキングに行った4日間は、ずっと同じ服を着ていた上にシャワーも浴びれず、最もやられた日々だろう。腰、お尻から足にかけて無数のぶつぶつができて、かゆくて夜もよく眠れなかった

 そのとき初めて、「南京虫と真剣に戦おう!」と対策を考え始めた。戦うには、まず敵を知らねばならね。と思って、辞書で引いてみた。南京虫とは、“床じらみ”のことで、要するに「しらみ」である。そして、「茶褐色で5ミリメートルの大きさ」と書いてある。敵の姿はわかった。5ミリなら肉眼でも探せば見つけられる。この日から私は、着ていた服を脱いだとき、そしてこれから着る服も虫がいないか探すようになった。
 アクスムでは、あきちゃんの服の上にいる小さな黒い虫を発見した。しかしそいつは捕まえようとすると、ピョンと飛んでどこかに行ってしまった。あきちゃんも私ほどではないにせよ、トレッキングのころから、少なからずやられている。黒い虫は正確には南京虫ではないかもしれないけれど、多分そういった類の虫だろう。
 バハールダールでは、脱いだTシャツを丹念に調べて、ついに奴を発見した。確かにそいつは茶褐色だった。しかし、ショッキングだったのは、そいつをつぶした瞬間、私のTシャツに血のしみがつき、奴は半透明に変わったのだ。つまり奴は、私の血を吸うことによって、茶褐色になっていたのだ。

 それにしてもこいつはどこからやってきたのだろう。“床じらみ”というからには、ベッドのシーツなどにいそうだが、実際に見つけたのは、1回しかない。寝ているときにやられるというよりも、バスでの移動中にやられている気がする。そう、おそらくエチオピア人にいるのだろう。エチオピア人と多く一緒にいて、触れ合った日は、特にやられている。バスの中で、チクッとして、靴下をすぐにめくると、いたー!!そいつはまたしても黒い奴で、靴下の中でうごめいていた
 アジスアベバでは、宿には多分いなかったと思うが、移動が長かったせいか、おそらく私についてきていたのだろう。茶色い奴と、黒い奴を見つけた。そして、一度水攻めにしようと、洗面台のところで水をかけてみたが、奴は水にも強く、水をかけてもまだ平気で飛び跳ねる。手ごわい相手である。
 エチオピアの南部に来ると、なぜかやられなくなってきた。もうすぐ終わりだ。こいつとの戦いも。そう思ってケニアに入国したその夜、モヤレでもやっぱり私はやられていた。しかしこれが、最後の戦いだった。それ以来、私は南京虫に悩まされることなく、ぐっすりと眠れる日々が続いている。

これだけ戦ってきた私の、南京虫、傾向と対策は・・・
その1  できるだけきれいな宿に泊まる。
その2  シーツ、服は常に虫がいなくて清潔なことを確認する。
その3  なるべく毎日シャワーを浴びて清潔に。
その4  薬と殺虫剤を常に持っていること。
その5  ナフタリンも試してみたらどうでしょう?
1から3が簡単なように見えてなかなかできないのがエチオピア、皆さんの健闘を祈る。(映子)

2月22日〜3月17日

靴磨きを試してみる。そしてデバルクからシレへ 2月22日

1年4ヶ月、同じトレッキングシューズを履いている。その間まったく手入れをしていない。けっこういい値段のするいい靴なのだが、さすがに今ではくだびれて皮がカピカピしている。このままじゃ世界一周する前にオシャカになっちゃうんじゃないかなあと心配していた。靴磨きの少年からよく声をかけられた。汚れた靴をみたら、そりゃ声をかけてくるのが普通だ。しかし、ぼくは少年に靴を磨いてもらうつもりはなかった。トレッキングシューズ用の皮に合うクリームを持っているとは思えなかったし、他の革靴と一緒にされて、薄緑色の僕の靴を真っ黒な靴墨で磨かれたらかなわないなと思ったからだ。

それは、大きなみくびりであった。バスがやってくるまでまだまだ時間があったので、靴磨きの少年と話をすると、トレッキングシューズ用のクリームも持っているというのだ。料金交渉を終え、靴を磨いてもらう。靴が生き返った。仕事もなかなか丁寧でよろしい。満足の出来だったので、少年に少し大目にお金を渡した。それでも日本円にすれば全部で60円もしない。

少年を気に入った僕は、彼にもうひとつ仕事を頼む。今日僕たちが向かうシレ行きのバスが来たら僕たちに知らせること、そしてチケットを買うのを手伝うこと、その2つだ。バスがやってきてチケットの売り子に人がいっせいに集まりだす。少年はゴミゴミした群集をかけわけ、僕らのチケットを買ってきてくれた。チップとして2ブル(28円)渡す。エチオピアに入るとチップ欲しさに「CAN I HELP YOU?」といってくるガキが多い。そして勝手にガイドをする自称ガイドも多い。少々ウザイが、時には彼らはとても有効的に働いてくれる。チップを渡すと幸せそうな表情をみせる。法外なチップを後から請求するってこともない。僕たちはこれまで人々の好意に甘んじて旅行してきたので、親切な行為にチップを払うというのに抵抗を感じてしまうし、チップを要求してくる行為にえげつなさすら感じてしまう。しかし、彼らは少なくとも働いてお金を稼ごうとしている。何もせず「ギブ・ミー・マネー」と言うよりよっぽどマシだ。だから、僕たちが必要としていることに関しては、彼らにどんどん頼んでいい仕事をしてもらおうと思った。チップをうまく使ってよりスムーズな旅をする、これがエチオピアを旅する上での重要なことなんじゃないだろうか。

 少年と別れを告げて、デバルクを出発した。評判どおり、デバルク〜シレの間の眺めは良かった。何百万年もの隆起と侵食によってつくられたエチピアの力強い地形だ。地球の息吹が感じられる。シミエン国立公園からは、それらを上から見下ろしていたわけだが、バスからはちょうど下から見上げる格好になる。途中エンジントラブルで1時間以上山の中でとまったときは自分たちの“乗り物運”の無さを呪ったが、なんとかその日の夜にはシレの町にたどり着いた。(昭浩)

アクスムの町へ―エチオピアのバス その1 2月23日

今日もまた朝5時起き。バスに乗る時はほとんどこんな早朝に起きなければならない。本当はシレという町にはまったく用がなかった。失われたアークのあるアクスムという町に行くためにはそこで乗り換えなければならないのだ。ダイレクトに行ってくれればどんなに楽だろうと思うのだが…

 朝5時半にはバス停に着く。しかし、バス停の門は閉ざされていて、その門の前にはまだ暗いというのに多くのエチオピア人が並んでいる。これは、ここだけに限らず始発のバスが出るターミナルでは普通のこと。門が開くと一斉にバスの席を確保するためみんなが走りだすのだ。この席取り競争、ツーリストには不利である。どのバスに乗ればいいのかわからないし、重いバックパックを背負って群集の中を走らなければならないからだ。
 そういう時はどうするか。門の中にいる人に声をかけまくって、自分が外国人ツーリストであることをアピールするのだ。すると、バスターミナルのスタッフの誰かが僕たちを助けてくれる。横の門から特別に中に入れてくれて、バスのところまで案内してくれるのだ。僕たちは、チケットも買って、自分たちの席も確保して、それから群集たちが一斉にバスに走ってくるのを待つというわけ。門が開いた瞬間、一斉にバスに向かってくる様子は、時代もののテレビでやっている戦国時代に足軽たちが大将の合図とともに一斉に敵陣に攻める様子に似ている。フェアじゃないとは思うけど、あの群集と一緒に席取り合戦をする気にはとうていなれない。

 アクスムには朝の9時前には着いた。映子の調子がいまひとつなので、自分ひとりでアクスムのなかを歩き回ることにした。すると少年が近づいてきて一緒に歩き出した。「僕はただブラブラしているだけだから一緒に来てもチップはあげられないよ。」とまずクギをさしておく。15歳の少年としばらく話をしながら歩く、バス停に行って、バスの時間と料金を調べ宿に引き返す。少年は、チップか何かをくれないか、と言ってきたので僕は丁寧に断る
「はじめに言ったとおり、何もあげれない。」
「Why not?」と少年
「Why yes?」と僕
少年は苦笑いしている。
「だったら日本の歌を僕のために歌ってくれないか?」
僕は、「大きなのっぽの古時計」と「上を向いて歩こう」を歌ってあげた。
歌はあまり得意ではないが、うまいか下手かなんてまあどうせわからないだろうと思って歌ってあげた。それでもせっかくなので一生懸命歌ってあげた。少年はとても気をよくして、お茶をごちそうするよ、と誘ってくれた。
「じゃあ、次に会った時ごちそうしてもらうよ。」
僕もなんか気分がよくなって、軽い足取りで宿に戻っていった。(昭浩)

映子エチオピアの病院にいく 2月24日

映子の調子が悪い。疲労がたまったためだろう。頭痛と下痢と熱がある。熱はそれほどないものの、もしかしてマラリア?という疑問も湧いてくる。マラリアの典型的な症状がその3症状だからだ。

 同じ宿に泊まっているエチオピア人に車で病院に連れて行ってもらった。病院での通訳もしてもらう。まったくの他人なのに、ここまで親切にしてもらって、ほんとうにありがたい。
 エチオピアの病院はかなりしっかりしていて、血液検査までその場でしてくれる。注射器もおろしたての新品である。採血したその場で、博士のような人が顕微鏡でガラス板にのった映子の血をながめている。いったいなんの病気なのかは、言ってくれなかったが、とにかくマラリアではないようだ。診察代や検査、薬代合わせて100ブル(1400円)くらい。保険を請求するほどの額でもないが、アジアに比べたら高い。

 僕もカトマンズで似たような症状になった。とにかくだるくて疲れやすい。何もする気にならない。僕はチベットまでそれをひきずった。早く元気なればいいが…少し心配である。やはりアフリカではゆっくりゆっくり体調を整えながら旅をしなければいけない、そう身にしみて感じた。(昭浩)

休養日 2月25日

ちょっと調子にのりすぎたらしい。いくらお腹が強くなったとはいえ、水道水や井戸水をガブガブ飲みすぎた。昨日の映子にひき続き、僕のお腹も下痢模様。銀行に両替にいった後、映子は倒れるように寝込み、僕も洗濯を済ましたあたりからお腹がゴロゴロ。アフリカの水をなめてはいけないのだ。(昭浩)

失われたアーク 2月26日

クドイようだが、インディジョーンズが好きである。だからアークを求めてエチオピアの北の果てアクスムまでやってきた。アークとは、ガイドブックによれば、モーゼが神との契約のしるしに与えられた、いわゆる「十戒」の記された2枚の石版を納めた聖なる箱となっている。エルサレムから持ち去られたアークがここアクスムのセントマリア教会に納められているのだから行かないわけにはいかない。
 アクスムに来てもそのアークを拝めるわけではない。アークのおさめられている教会にはたったひとりの僧侶しか入れない。それはわかっていた。ただ、アークのある聖地に足を踏み入れたかったのだ。しかし、何もなかった。見られるのは、アークのある教会の外観とそれを見張っている僧侶。建物と僧侶を見たってなーんにも感動しない。何しにここまできたのだろう、そんな空しさに包まれるだけだ。映子にいたっては、女人禁制のため、まわりにある教会にも入れない。時間と労力を費やしてここまでやってきたが、それだけの価値はとてもじゃないが感じられない。この聖地ではふたりとも体調を崩している。はたしてアークのご利益はあるのだろうか? (昭浩)

アクスムのオベリスク
アクスム王国のシンボルであったオベリスク
アクスムの本物のアークの納められているといわれる教会
ここが本物のアークの納められているといわれる教会。しかし、誰も見れない
アクスムのアークのある教会の隣の教会にあった聖書
アークのある教会の隣の教会にあった聖書。絵がきれい

完全復活の日、狂った男に出会う   2月27日

久々の移動で、ちょっと興奮しているのか、朝早くバスに乗ったのに眠くない。例によって、5時半にバス停に行き、流れ星を見ながら、ゲートでチケットを買って待つ。ゲートが開いて中に入るも、バスは1台だけ。人はすぐにいっぱいになったけど、出発は7時ごろだった。

 窓から見える景色は、いつもと同じように大きくて、山々が、木々がたくさん見える。でもなんだか新鮮。ああ、私元気になったんだ。サボテン、バオバブ、ロバ、石でできた家、ごつごつした山々、力強い、男性的な感じかな。いろんな風景を心に刻もうと思った。バスの中ではいつも寝てばかりだったけど、今日は本当にちょっとしか寝なかった。
 あきちゃんは、右に左に揺れながらよく寝てた。崖のところで、大きなトラックがたくさんあって通れず動けず、しばらく止まっていた。そのほかはスムーズだった。道はガタガタ。揺れは相変わらず。途中で舗装されているところがあったけれど、また、ガタゴト道になって、マカレに着くとやっときれいな道になった。

 この国では、どこの街にも気が狂っている人が2,3人はいるみたい。デバルクでは、レストランに現れた男を周りの人たちが「Half Mad」と言っていたし、アクスムでは病院から帰ってきたとき、車の窓ガラスをガンガンたたいてくる狂った男がいた。ここでも、変な男が英語を話しながらついてきた。最初は客引きかガイドだと思ったが、服装もしゃべり方もおかしい。アル中なのか何なのか、エチオピアはなぜか狂った人がいる。(映子)

エチオピアのバス その2   2月28日

 朝4時半におきた。ちょーー眠い。バス停のおやじが、バスは5時半だと言うからがんばったのに、一向に中に入れない。右のゲートから入って今度はチケット売り場の前あたりで待たされる。銃を持ったおやじに荷物を持っている人はことごとく止められ、待たされている。なぜだ?中に入って行ってる人もいるのに!!
 3回くらい、そのおやじのところへ言いに行った。やつは銃を持っているので、いつか撃たれるかも、とちょっとびびりながらも「いつ入れるの?」とか、「あの人たちは入っているのになんでだめなの?」と言ってみるが、「Sit Down」 と言われるだけ。おやじの目を盗んで横からすり抜けようとすると、別のおやじに止められた。そのおやじを言い合うこと2回でなぜか入らせてくれた。あっさりと。目的のバスに入ると、中には2,3人しか人がいない。そして、私が入ると、なぜかその人たちはいなくなった。あきちゃんもほどなく入ってきた。
 しかしそのバス、みんながゲートからわーっと入ってきてもあまり乗る人はいなくて、半分以上空席のまま出発したのだ。道は最初だけ少しよかったもののすぐガタガタの道になった。朝焼けがきれいだったのもつかの間、天気は悪くなり、空は雲に覆われていて、霧も出ていて見通し悪い。

窓から見える景色は、なかなかいい。サボテンいっぱい。らくだの群れもある。野らくだかとおもったら、首に何か刻まれている。家は、村によっていろいろ。トタン屋根で石の壁とか、木の壁とか、わらぶき屋根、石の家、などなど。
 ドライバーは、チャレンジャーのようにぐちゃぐちゃの道をわざと選んでいっているように見える。実際はそうじゃないんだろうけど、とにかく悪くてそう感じるのだ。
 そうしてたどり着いたウェルディアは、山あいの小さな村だった。(映子)

ラリベラへ―バスの荷物代でもめる 3月1日

アクスムからラリベラを目指して今日で3日目。毎朝5時起きの日が続く。本当はラリベラにダイレクトに行くバスがあればいいのだけど、この国は夜バスが走らないことになっているので、長距離の移動のときは刻んでいくしかない。しかも毎回バスを降りた後、重いバックパックを背負って宿を探し、次の日の早朝、また重い荷物を背負ってバス停に向かう。これだけでも結構疲れるもんだ。こんなこと3日も繰り返していると、「いつになったらラリベラに着くのだー」と叫びたくなる。神経が図太くなければ、たぶん狂い死にしていることだろう。

僕たちはきっちり5時半にはバス停に着いて、バスが出るのを待っていた。しかし、バスは出ない。人が集まらないのだ。10時半まで待った。結局僕たちが乗っていたバスは出発しないという非情の判断がバススタッフのなかでなされてしまった。
 ラリベラに行くという別のバスがやってきた。バスの天井に載せた荷物を新しいバスに乗せかえる。ここで一揉め。
「(荷物を載せる前に)お前、荷物代払え。10ブルだ。」
荷物代を請求されたのはこれがはじめてではない。これまで2,3度あった。しかし断固として払わない。荷物代を払っているエチオピア人を見たことがないし、多分払う必要もない。結局バスのスタッフのポケットにいくだけだ。
「ノー。僕たちは荷物代を払う必要がない。」
「荷物代を払わなければお前をバスに乗せない。」
今日はちと手ごわい。しかも5人くらいのエチオピア人から責められる。
僕は、顔を赤らめながら怒った
「僕らはこれまでエチオピアで荷物代を請求されたこともないし、払ったこともない。どうしてここだけ荷物代を払わなきゃいけないんだ。」

僕たちがガシャナという町に着いたのは午後2時ごろだった。ここはラリベラから50キロほど離れた町。客が少ないから今日はここまでだからお前たちは降りろ、そんな勝手なことを言われて、バスを降ろされた。途方にくれていると、
「I am broker.(俺はブローカーだ)」と言ってくる少年が現れた。ラリベラまでの車を手配してくれるという。結局のところピンハネしてカスリをとっていくブローカーにはあんまりお世話になりたくはないんだけど、堂々と、俺はブローカーだ、と言われるとなぜか好感がもてるから不思議。この少年の手配してくれた車で僕たちはラリベラに向かった。

 ラリベラに着くと、自称ガイドの少年たちが集まってきた。バスを降りたところで自称ガイドが集まってくるシチュエーションは、エチオピアでは日常的にあるので、またか、と半ばあきらめながらもうんざりしてしまう。いったん荷物を降ろし、僕がおとりとなって少年たちの相手をしながら、その間に映子が宿を探しにいく、という作戦に出ることにした。少年ガイドのなかでひとり頭の良さそうなゲタチューという少年がいた。腕っぷしの強そうな明らかにゲタチューより年上のゴロツキたちも、ゲタチューには一目置いているように見える。
彼は、すべての人を納得させすべてにおいて信用させてしまう、そんなオーラのこもった口調で、僕にあなたたちのガイドをさせてほしい、そんな内容のことを言った。僕たちは、明日のラリベラの案内を14歳のゲタチューにお願いすることにした。
 いつもはうざい少年ガイドだが、なかには頼りになるガイドもいるものである。(昭浩)

ラリベラの教会と森の木  3月2日

 朝6時15分前、ガイドの少年とともに出発。星が出ている。まだ暗い。ガイドのダニエル(本名ゲタチュー)とその取り巻きみたいな少年2人と、十字架教会(聖ジョージ教会)のミサを見に行った。

 暗い中で岩の裂け目みたいな細い道を歩く。白い布をまとった人々にたくさん会った。ミサはすでに始まっていた。狭い教会の中には、祈る人、お経みたいなのを唱えている人がいる。観光客らしき欧米人も4,5人いた。カーテンの奥の部屋では、偉い人たちがどうやら祈っているらしい。時々、カーテンがあいて、2,3人出てくる。アルメニア教会の人たちがやっていたように、お香をたいている香炉を持っている人がいる。しかし、ミサは長い。そして眠い。偉い人が出てきてお経を唱えたりしているときには、みんな土下座みたいな姿勢になって祈る。私たちもとりあえず座る。そこで体育座りみたいに座って、しばらく眠った。不謹慎かもしれないが、次に立ったときにきっとつらくなるだろうと思ったので、きちんと休んでおいたのだ。その後、案の定何度も立ったり座ったりした。最後に赤ちゃんが出てきた。奥の方から赤い布にくるまれて。そういえば、時々泣き声が聞こえてたな。

ラリベラのミサの朝
ミサの朝。たくさんの白い布をまとった信者たちがあらわれる

 教会はたくさんあって、第1グループと第2グループと聖ジョージ教会の3箇所に分かれている。朝食後、第1グループの教会を見た。一番大きな教会、マリアの絵があって、天井にも絵、浮き彫りっぽいのがある教会、800年前のオリーブの木でできた箱がある教会。Stジョージがドラゴンを殺す絵がある洞窟教会。そして、ラリベラ王が奥に眠っているダブルチャーチ。それからもう一度、朝行った十字架教会へ。中にあるオリーブの木でできた大きな箱2つも見れた。ここにもStジョージがドラゴンを殺す絵が新旧2つあった。それぞれの教会、形もクロスも違っていて、なかなか面白い。ベーカリーがあったり、モンクがすむ穴があったりする。何よりもすごいのはやっぱり岩をくりぬいて作ったってこと。

ラリベラの協会
くりぬかれた岩の間の通路から教会の入り口へと続く
ラリベラ教会の神父とクロス
それぞれの教会に違ったクロスがある。神父さんも様々、個性的で面白い
ラリベラ教会の神父とクロス
ラリベラ教会の神父とクロス

第2グループは、山の向こう側。エルサレムを表した天国へ登る壁のある教会。クリスマスに登って死んだ人もいるらしい。2番目に大きい教会は、中はじゅうたんがあまりなく、干草が敷かれている。イタリアとの戦いのころ、刑務所だったとか。3番目に大きい教会、そこにはラリベラ王のプレイスティックがあった。彼は背の高い人だったらしく、大きなスティックだった。最後の教会だけ、神父さんがいなくて中に入れなかった。でも、これだけたくさんの教会を周って、いろんな説明も聞けて、私は満足、お腹いっぱいだった。

ラリベラ教会の第二グループ
第二グループの教会。この教会の手前には深い溝が掘られている
ラリベラ教会の窓
アクスムスタイルの窓

 今日のお昼、NGOの人たちとの出会いがあった。レストランで、お茶を飲んでいる日本人のおじさんがいた。こんなところで日本人に合えるなんて、びっくり。少し話をしながら、私たちもそこで一緒にジュースを飲んだ。おじさんが去ってから、日本人の女の人2人とアイルランド人の男の人がやってきた。話を聞いてみると、同じところで働いている人らしかった。
さっきのおじさんは別れ際に「困ったことがあったら、事務所を訪ねておいで」と言ってくれた。最初は全然そんなつもりはなかったが、折りしもコンピューターの調子が悪かった。もしや、コンピューターのソフトとか持ってるかも?と思って、教会めぐりを終えた後、事務所を訪ねることにした。

 おじさんとマナさんと香織さん、3人ともそれぞれに私たちを迎えてくれた。コンピューターはなかったので、ソフトもなくて、目的は果たせなかったけれど、大きな収穫があった。そこは、「ラリベラに木を植えよう」というNGOの事務所で、香織さんが書いた絵本とチラシを見せてもらった。その絵本は、エチオピアを旅行したある女の人が、いじめられている子供のふくろうを助けて、しばらく育てて森に返そうとするが、木を切られてしまってラリベラの森はもうなくなっていた、というお話。私は素直に感動してしまった。ラリベラのふくろうそして、その物語の主人公である香織さんがここにいるのだ。
 アフリカを旅行した話を書いた本を見せてもらったり、旅の話を聞いたり、この団体ができるまでの話を聞いたり、一緒に豆とスパゲッティを食べて、楽しい時を過ごした。そして、私たちは特に勧められたわけでもなく、誰に強制されたわけでもなく、自然に香織さんたちに共感できたので、私たちの記念樹を植えてもらうことにした。おじさんは私たちにお金を使わせてしまったと思って、ずいぶん気を使っていたけれど、150ブルは全然高いとは思わなかった。ボランティアとか、寄付とかにはあまり縁のない私だけど、今回は、心からいいなと思えた。あきちゃんは、もともとこういうの好きだし、私もせっかくここまで来て、こんなに共感できて、私にもできることがあるのなら本当に喜んでという気分だった。

 すごく不思議は、運命の糸みたいなので導かれて、こうしてこの人たちにめぐり合えてよかったと思う。いろんなことを考えて、なかなか寝付けない夜だった。(映子)

ラリベラの教会は、これまでたくさんの遺跡を見て、そういうものにすでに食傷気味の僕にとっても、目を見張る建造物だった。ひとつの大きな一枚岩を下へ下へと十字架を残すように深く浮き彫りにしていく。長い年月の末、それは浮き彫りでなく、大きな縦穴にそびえる、十字架の塔となった。それが十字架教会だ。エチオピア人の厚い信仰心を象徴する教会、その特異な人の目を引く意匠もすばらしいが、多くの人々の念がこもった教会の持つパワーにすっかり惹きつけられてしまった。(昭浩)

ラリベラの教会

いろんなタイプのエチオピア人  3月3日

 私は今日も5時に起きた。だけどあきちゃんがなかなか起きず、結局6時ごろ出発。バスはすでに満員で、ガシャナまでバスは10ブルのはずなのに、「25ブル出せば乗せてやる」と、足元を見てくる。いやな感じ。ムカッときて、乗るのやめようかと思ったが、「少々高くても、バスがあるなら乗ろう」といって乗り込む。一番前のいい席だった。そうしてやっとラリベラ脱出。

 ガシャナでは、この間もいたブローカー兼クッキー売りの少年がいた。といっても、そういう輩は何人かいる。前回の奴は金を要求してきたので、私は好きじゃない。今回は、前回もまわりにいた奴で、そいつはとてもいい奴だった。車やバスを探してくれて、金くれとかは言ってこない。

 腹が立つのは、物乞いが私たちのほうにやってくるのを見て、「金をあげろ」といってくる男。それならお前があげろよ!!というようなことを、英語でいろいろ言うと、わからないのか、黙ってしまった。ガシャナで乗り換えたバスが着いたところでも、同じようにもやつがいた。そいつはちょっときれいな格好をしているのだ。
 そんなこんなで着いたときは気持ちがむしゃくしゃしていたが、その村で食べたベイアイネットは最高においしくて、おいしいコーヒーもただで飲めた。そして、宿の前では、少年たちがサッカーゲームや卓球をしていたので、少し参加した。なかなか楽しい。宿の中庭では、バハールダール大学の学生とサトウキビを食べながら語らう。この名前もよくわからないような村、私は結構好きになった。(映子)

僕は物乞いには基本的にお金をあげないようにしている。慈悲の心がない、と言われればそれまでだが、物乞いという行為が生きていくための手段としてなりうるのなら、極端な言い方をすると、物乞いがひとつのビジネスと成り立つのなら、物乞いをする人々がこれからもどんどん増えていく、そんな気がするのだ。何かを人々に与えようとすることによってお金を人々からもらう、そういう行為はいいと思う。たとえば、体の不自由な人が路上で歌を歌ったり、楽器を弾いたりして生計をたてようとしていたとすれば、僕は喜んでそれを応援したいと思っている。

 「こいつは物乞いだ。お金をあげろ!」
 今日はそんなことを言ってきたエチオピア人がふたりもいた。
(どうしてそんなことをてめぇらに言われなきゃいけないんだ。)

そう言ってきた比較的身なりのいいやや裕福そうな青年の言い方と態度にカチンとくるものがあった。その物乞いをバカにしているようにも聞こえたし、こっちがバカにされているようにも聞こえた。偉そうなことをいって、自分では何もしないその青年にも腹が立つ。しかし、本当のところその憤る気持ちの源がなんなのかよくわからない。僕も偉そうなことをいっているが、実はこの青年と同じなんじゃないか?自分のなかにあるイヤなもの、それと同じものを彼のなかに見出してしまうから怒りがこみ上げてきたのかもしれない。(昭浩)

エチオピアの森   3月4日

 昨日も今日もバスに乗る。バスに乗って、風景を見ながら、ラリベラの森のことを考えていた。ラリベラには、いつか戻ってきて、私たちの木を見たい。そのころは森ができているかな。なんて思うと、「ラリベラに木を植えよう」という、NGOの仕事は夢のある素敵な仕事だなと思う。もちろん、大変な苦労の多い仕事だと思うけれど。
 今までエチオピアの大地を見ても、わりと緑豊かだな、なんて思っていたけど、少し見方が変わった。確かに木々は、ぽつんぽつんと生えているけど、森はあまりない。ラリベラに木を植える、これを考えた香織さんはすごいと思う。
 あきちゃんも、木はどれくらい生えているかというのが、風景を見てると気になるらしく、「ここは、森が残ってるね」とか言ってくる。そのくせまたよく寝るのだ。一度、前の席の鉄の棒におでこをぶつけた。その後も私が何度助けたことかわからない。(映子

もともと国土の40%あった森が内戦とその後の乱伐によって今や国土の4%にまで失われてしまった。土が痩せ、川の水が枯れ、多くのものが森とともに失われてしまった。それは、バスの景色を見ていてもわかる。エチオピアを旅していて、心が荒涼としてくるのは、森が少ないのも無関係ではないと思う。(昭浩)

タナ湖ボートツアー  3月5日

 8時にギオンホテルに集合。タナ湖を見ながら、ほかの人たちを待つ。日本人の男の人が1人、ドイツ人のおばちゃんが1人、4人でボートに乗ってさらに待つ。そして、エチオピア人カップルが来て出発。と思ったら、ボートを別のホテルの前に乗り付けて、また待つ。エチオピア人カップルもう1組でやっと出発。
 最初の目的地は、ゼゲという半島だ。そこに着くまでに1時間半くらいかかった。すぐそこに島は見えているのに、なかなか着かないのだ。一番最初に見た教会、これが一番よかった。わらぶき屋根の教会で、一番古いのに壁画は色鮮やかにオリジナルが残っている。マリアとキリスト、Stジョージがドラゴンを殺してる絵、最後の晩餐、キリストが貼り付けになるまで、そして人を食べるけど、誰かに水をあげたから天国にいけた男、などなど。聖書の中の物語を題材にした絵がたくさん描かれていた。

エチオピアのタナ湖の教会
わらぶき屋根の教会。古そうでなかなか雰囲気があるので好き
エチオピアのタナ湖の教会
Stジョージがドラゴンを殺している絵
エチオピアのタナ湖の教会アフロの天使
ゴンダールでも見た、アフロの天使がいっぱい

 それから、2つの教会を見たけど、どちらも絵は新しいもので、内容は同じ。はっきり言って1つでいい。最後に女の人は入れない教会のある島に行って、私たち女性陣は待たされる。ドイツ人のおばちゃんと話しながら木陰で待つ。風が気持ちいい。納豆みたいなパピルス船がおいてあるのも見える。のどかな感じもいい。しかし待ち時間が長すぎる!!そこには王の墓があったそうだ。見たいような、別に見たくないような・・・。
 タナ湖には、ほかにも女人禁制の島もある。女性はやはり差別されている。汚れてるーとか思われているのだろうか。キリスト教って神の元に平等のはずだけど、アフリカだからか、エチオピアだからか・・・。
 そうして、このボートツアーは、カバのいないヒッポポイントに行ってから、あっけなく終わった。(映子)

タナ湖に浮かぶゼゲ島
タナ湖に浮かぶゼゲ島
タナ湖のパピルス船
わらのような草で作られたパピルス船
タナ湖のペリカン
カバは見れなかったがペリカンの群れがいた

ブルーナイルフォールの不気味なエチオピア人 3月6日

今日、青ナイルの滝に行く途中変な男がついてきた。変な男が後ろをついてくることは、この国ではよくあることだ。そしていつも気味の悪い思いをする。
 少し止まって気味悪男を先に行かせる。すると向こうは、ちょっと行ったところで待っている。
僕は聞いてみた。
(あなたは、どこに行くの?)」
「・・・」
「We don’t need guide. Please leave us alone. (ガイドは必要ない。僕たちだけにしてくれないかな)
 すると男は
「俺は、この先にある村に住んでいるんだ。」
と言って、足早に立ち去ってしまった。
しかし、しばらくすると、いつの間にか僕らの後ろをついてくる。
「なんでついてくるんだ」
「俺は俺で楽しんでいるんだ。」
シンナーの吸いすぎか、歯はボロボロ。目も少しイッちゃっている。

僕たちの災難はこの気味の悪い男だけではなかった。
この滝の近くに住んでいるクソガキ、こいつら僕らに向かって石を投げてくる。
なんてところだ。

 ところで肝心の青ナイルの滝は、なかなかの迫力だった。それでも、今は乾季のため雨季の時の25%しか水量がない。これが100%の水量だったらどうなるんだろうか?この滝の水は、この後エチオピア国内を通ったあと、ハルツームで白ナイルと合流し、エジプトを経て、地中海にそそぐ、そう思うと感慨深いものがあった。(昭浩)

不気味な男。この男に注意!
青ナイルの滝
めちゃくちゃでかい、ってもんでもないけど、なかなかよい滝。個人的にはとても好き。水量の多いときに見てみたい

エチオピアのバス その3  3月7日

エチオピアでは、毎日が勝負だ。気合を入れて望むシチュエーションが毎日訪れる。

昨日は、アジスアベバ行きのチケットを買うために、朝6時にバスターミナルに並んだ。はじめ、ターミナルのゲートの外に大勢の群集と一緒に並び、ゲートが開いた瞬間にダッシュ。そして、チケット売り場の窓口に並ぶ(エチオピア人の割り込みアリ)。その列は、係員の気まぐれで、並ぶ場所を何度も変えられ、その度に列は大きく乱れ、そのどさくさにまぎれてエチオピア人が割り込む。今日のバスチケットはまさに力ずくで勝ち取ったチケットなのだ。

今日もバスの席をゲットするため朝6時前に、ゲートの前に立っていた。いつもなら、門番に、自分が外国人であることをアピールして、先に入れてもらうのだが、ここバハルダールは人が多すぎてそれも無理。エチオピア人と一緒にゲート開門と同時にまたまたダッシュ。そして荷物代で揉めて・・・もううんざり。こんな不毛なエネルギーの消費はたくさんだ。人はもっと生産的なことにエネルギーを使うべきだ。

 バスが青ナイルが作る深い渓谷を下り、橋を渡った後だった。ガン!という音とともにバスは止まる。ざわざわと乗客がどよめく。外でバスの係の兄ちゃんが頭から血を出して倒れている。バスのドアのガラスも割れている。何が起こったのかさっぱりわからない。バスのエンジンもなぜか故障したみたい。理解不能なことが起こる、それがアフリカなのか。血を流していた兄ちゃんに日本から持ってきたマキロンをかけてあげる。復活した兄ちゃんは、エンジンの部品を取りに行くと10キロ以上は離れていると思われる町に走っていってしまった。その行動もまた理解不能だ。僕たちはいつアジスアベバに着くのだろうか?(昭浩)

アジスアベバ   3月8日

 朝4時半におき、寝ぼけマナコでバスに乗る。今日は故障もなく、快調に走り、9時前にはアジスアベバに着いた。アジスは都会ではあるけれど、そんなにゴミゴミしていなくて、緑豊かな町。ちょっとした田舎町という感じすらある。人々の家は、トタン屋根で汚いのが多い。ドイツ人のおばちゃんが、「貧しい」といっていたのがわかった。
 物乞いもエチオピアのどこの町よりも多い。3歩歩けば、物乞いか物売りに声をかけられる。銀行とイミグレに行っただけで、何人の物乞いに会ったことだろう。同じバスに乗っていた、ちょっと汚い服を着た人たち、彼らが物乞いになっていないことを願うけれど、見た目はまったく同じような感じ。服装で判断しちゃいけないかもしれないけど、エチオピアの伝統的な服を着て、白い布をまとった人たちが、物乞いには多い。地方ではそんな服の人がほとんどで、また普通に暮らしてる人がほとんどなのだけれど。
 アジスはちょっと違う。人々の服装は小ぎれいで都会的。髪型もストレートへアの女の人がいたりする。いろんなものが売ってるスーパーマーケットもあった。(映子)

アジスアベバ
アジスアベバの中心ピアッサ付近。こじんまりした都会

国立博物館とゲタチュー  3月9日

 さわやかな朝だった。久しぶりに目覚ましをかけずに思いきり眠った。国立博物館まで歩く。昨日は開いていたお店が全部閉まっている。今日は日曜日だ。
 博物館の一番の見所は、“ルーシー”。チンパンジーより脳は小さかったけど、2足歩行、つまりは2本足で立って歩いていたので、人間と同じグループに入るというわけ。絵を見ると、かなりサルっぽい。そのほかにもそのころの動物の骨と絵があって、興味深い。豚とライオンは牙がすごい。ワニ、カバはかなりでかい。キリンの先祖みたいなのもある。森の中で暮らしていたからでかいのか、人間ってとてもちっぽけな存在だね。脳だけはでかいけど。
 展示物は、そこから急に現代に近くなる。ハイレ・セラシエの玉座などなど。特別展で、今日から報道写真点をやってて、ボスニア・ヘルツェゴビナや、パレスチナ、アフガニスタン、そしてスーダンやパキスタンの写真もあった。アフリカのは、エリトリア、ウガンダ、シエラレオネ、セネガルなど。コメントも一生懸命読んで、かなり時間がかかった。

 午後、アクスムで病院に連れて行ってもらったりしてお世話になったエチオピア人、ゲタチューに会った。ピアッサでお茶した後、インターネットカフェ探しも付き合ってくれた。気持ちのいい午後で、散歩が楽しかった。マンゴージュースを飲んでホテルに戻り、明日また会おうといって別れた。
 彼はとても優しい。物乞いの子供たちには、物を与えるわけではないけれど、決して軽蔑したような態度をとらない。人間として、子供としてのその子の存在をきちんと認めてあげているという感じ。私にはなかなかできない。どうしてもうざい、うるさい、どっか行けというような態度になってしまう。それは、自分の身を守るためには、ある程度仕方のないことでもあるのだけれど、いつもこんな態度でいいのか?と自問自答してしまう。この子供たちはどんな大人になってしまうのだろう。私にできることってないのかな。こんなにもたくさんいる貧しい子供たち。心だけでも豊かに育ってほしいと思う。(映子)

下痢と日本大使館 3月10日

俺、何やっているんだろう?いつまでもこんなことしていていいのか
そう思うときがある。

日本大使館に行ったときのことだ。日本人のビジネスマンが大使館の人とアポイントか何かで受付のところで待っていた。三つボタンのグレーのスーツ、ノリの効いた白いシャツに紺色のネクタイ。髪はきっちりセットされている。僕より少し年上だと思うが、近い世代だと思う。日本の社会を象徴していたそのビジネスマンのすぐそばで待っている僕は、よれよれのTシャツ、シミだらけつぎはぎだらけのズボンにビーチサンダルとあまりにも違いすぎていた。自分は日本の社会から疎外されている、そんな不安な気持ちに支配される。
僕は自分に言い聞かせる。
本当に自分が心から欲することをとことんやったら、その先には必ず道が開かれている。」

その日僕は下痢をしていた。日本大使館の医務官に相談しに日本大使館に来ていた。たまたまその日が在留邦人向けにある年に1度の健康診断の日だったらしく、幸運にも日本からやってきた巡回医師である長谷部先生に診てもらうことになった。
 「私は、今日内科のほうを担当させていただいております長谷部と申します。」
 先生は丁寧に名乗ってから診察をはじめた。なんと腰の低い人なんだろう、こっちまで恐縮してしまう。僕が1年5ヶ月旅していると聞いてたいそう驚いたご様子だった。
「これからも長いでしょうから・・・」
そういって、たくさん薬をくれた。
 「日本の先生にこうやって診ていただけるなんて本当にありがたいことです。」
と正直に僕がそう言うと長谷部先生はやさしい顔してこうおっしゃった。
「そう言っていただくと私も少しは役に立っているのかなあと思います。」
かっこいいなと思った。長谷部先生のようなやさしくて謙虚な人を見習わなきゃいけない。まだまだ僕は修行が足りない。(昭浩)

忙しい1日、アジスアベバにて 3月11日

今日はやること盛りだくさん。1ヶ月ぶりのメールチェック、イミグレにビザを取りにいく、日本大使館に借りた本を返しに行く、温泉に入る、香港レストランという中華レストランで春巻きを食べる、明日のバスチケットをバスターミナルに買いに行く、両替、荷物を日本に送る、考えただけでも疲れてしまう。

 1ヶ月ぶりのメールチェックは、300通もの新規メールが届いていた。そのうちの約50通が友人知人からもので、残りはすべてジャンクメール。制限時間の1時間はろくに返事も書けずにすぐに過ぎてしまう。次はナイロビまでメールチェックは難しいかも。

楽しみにしていた温泉はあいにく停電のため今日はお休み。香港レストランはランチタイムに間に合わず僕らが行ったときにはすでにクローズ。そんな不幸に見舞われ、さんざんアジスの街を徘徊し、夕方部屋に戻ったときはふたりともぐったりしていた。
 アクスムでお世話になった、ディサレンとゲタチューが僕らの泊まっている宿に夕食のお誘いにやってきたのはそんなときだった。二人が連れていってくれたのは、雰囲気のいい高級エチオピアレストラン。そこで高級インジェラをごちそうになった。高級といっても具が少し豪華になるだけなのだが、とにかく二人の気持ちがとてもうれしかった。いやなことも多いエチオピアだけど、ふたりのいるアジスアベバと僕たちの記念樹のあるラリベラ、この2つの場所にはまた来なきゃと、酔った頭の中で考えていた。(昭浩)

アルバミンチへ  3月12日

アジスアベバからグレートリフトバレーへと下ると秋ではなく夏の日差しが照りつけていた。バスはエチオピアではめずらしい舗装道をひた走る。僕たちはその中で、前の座席に頭をぶつけながら、後ろの子供の吐くゲロの臭いに耐え、ガキのもらす小便の臭いに耐え、エチオピア人から移ってくる南京虫の痒みに耐え、それでもよく眠る。途中の村でバナナやマンゴーの物売りがバスに乗っている。バナナ4房1ブル(14円)、マンゴー5個で1ブル(14円)。どれも安い。
今日の目的地アルバミンチという町にバスが着くと、オレンジ色の服を着た客引きが乗り込んできた。これが僕たちの不幸のはじまりなのだった。〈つづく〉(昭浩)

あほエチオピア男にだまされる 3月13日

 アルバミンチには、ワニがいる。歩いてすぐに見に行けるものだと思っていた。だから、ワニを見るためにアルバミンチにやってきたのだ。ところが、湖までのトランスポーテーションと、さらに湖でボートに乗らなきゃ見れないらしく、その手配も必要。つまりツアーのようなものを手配しなければならないのだ。昨日宿探しのときに出会ったオレンジ色の服を着た客引き(以下オレンジ)が、俺が手配してやる、と言う。しかし気が進まない。やつは、私があんまり好きじゃないタイプな上に、二人で400ブルだと言ってくる。「もうやめとこう」、と二人で話していた。しかし、昨夜部屋をノックするやつかいる。オレンジだ。カナダ人カップルも行くから、二人で200ブルで行けるぞといってきた。これはもしや、ワニに呼ばれているのか?行けるんなら行きたい!!そう思って、すぐに100ブル(1400円)のデポジットを払った。何の疑いもなく。いや、少しは疑っていたけれど。

 今日の3時にワニを見るサンセットツアーに行くことになっていた。オレンジは2時ごろに現れた。
「カナダ人は自分たちの車でここに来るから」、と私たちに言う。
そのまま私たちも待つ。3時半ごろになって、遅いなあと思っていると、オレンジは
「ちょっと見てくる」と言って出かける。
 4時過ぎに戻ってきたオレンジは、
「車が故障したから、まだ待つ」と言う。
さらに湖までは自転車でも行けると言い出した。おかしい。やっぱりおかしい。このまま待っていても行けそうにないので、
「お金を今すぐ返してくれ、そして自転車の値段を聞いて来い」と言った。
しかし、オレンジが再び戻ってきたのは5時半ごろ。もうどこにも行けないよ。で、お金は?と聞くと、
「ボートマンが湖にほかのグループと行っている」とか、よくわからない答え。でもこのときは、まだお金が戻ってくると信じていた。
 オレンジはもう一度出かけていってまた戻ってきて、
「ボートマンが予約は予約だとお金を返してくれない」と言う。
オレンジは、たぶんウソだとは思うけど、「この宿のオーナーの息子だ」とか、昨日言っていた。そこで、
「お父さんとか、このホテルやレストランに借りてでも返してくれ」と言うと、
「これは自分の問題で、家族は関係ない」
とか言って、友達に借りると言って外に出かけていく。全然借りられず、戻ってくる。彼の財布には、20ブルしか入っていない。私たちも一緒に借りに行くが、全然だめ。今度は、
「お父さんが、アジスから来るから待とう」と言って座る。

ついに痺れを切らした私は、「警察にいこう」と、その辺に立っているポリスマンに相談。彼はお金を借りに行くのにしばらく付き合ってくれたが、用事があるとかいって、ことが解決していないのに、いなくなった
その後、何軒かまわってオレンジがお金を借りて、64ブルまで返ってきたが、残り36ブルを友達に借りに行くといって、ドロン。それきりオレンジは戻ってこなかった。宿の人に言っても全然助けてくれず、「彼は悪いやつだ」みたいなことを言うばかり。私たちは12時過ぎても眠れなかった。

 結局、カナダ人カップルなんていないし、ボートマンにお金を渡したとかいうのも、オーナーの息子だと言うのも、全部ウソだったんだ。でも、最初に渡した100ブルを持ってそのまま逃げることだってできたのに、彼はどうして何度も戻ってきたのだろう。そして、やつはお金を貸してもらえるような友達もいない。なんてあほなんだろう。だけど、そんなやつにだまされた私たちは、もっとあほだ。簡単に100ブルなんて渡しちゃいけなかったんだ。彼の財布には、20ブルしか入ってなかったんだもの。今まで考えてなかったけど、100ブルの価値を思い知った。(映子)

アルバミンチ
ベケレモッラからの眺め。この景色だけがアルバミンチでのいい思い出
こんなアホにだまされた自分に腹が立つ

アルバミンチからジンカへ 3月14日

シャイ代をボラれそうになり、おつりをごまかされそうになり、ツアーのデポジットのお金をだましとられたうえにワニを見ることができなかった。まったくいい思い出のないアルバミンチを去る。アルバミンチの南にあるコンソまでいくとそこから西へと向かう。コンソの町には少数民族のおばちゃんがお金目当てか写真に撮られようとして半裸でウロウロしている。ラオスにいるアカ族(別名おっぱい族)のおばちゃんのおっぱい丸出し攻撃にもひるんだが、ここのおばちゃんのおっぱいもキツイ。目のやり場に困るというレベルのものじゃない。拒絶反応をおこしてしまう。途中お昼に停まったレストランにもいかにもツーリスト向けに半裸になったおばちゃんがおみやげを売っていた。

バスからときおり通り過ぎる村を見ていると、確かに普段から半裸で生活している少数民族というのは存在するようだ。男性も女性も半裸、子供は全裸、そんな人の姿をちらほらと見られる。でも、いかにもツーリスト向けにおばちゃんに脱がれても、こっちはひいてしまう。とうていお金を払ってまで写真に撮りたいとは思わない。
 そんな少数民族の人々と僕は同じ人間なのだけど、とてもその間には距離があるような気がする。じっくりお互い話をすればわかりあえたりするものなんだろうか?

ジンカの町は、ラオスの北にあるムアンシンという町を思い出させる。牛や鳥や羊たちが人間と一緒に気ままに道路を歩いている。子供たちも無邪気でかわいい。アルバミンチの雰囲気がシュールで温かみに欠ける感じがするのに対し、ここは人々の表情もやわらかくて、少しなごんでしまう。
明日はいよいよマーケットのある日。口の中に大きな円盤をいれたムルシ族に会えるのだろうか?(昭浩)

ジンカ
ジンカの町。車より牛のほうがはるかに多いのどかな田舎町
ジンカのメインストリート
ジンカのメインストリート。散歩しているだけでも楽しい

ジンカのマーケット   3月15日

 土曜日のマーケットに行った。朝8時ごろ、まだ全然人がいない。準備している人すらまばらだ。あとでまた出直すか。
 11時ごろ、もう一度マーケットへ。今度は結構人が増えて、マーケットらしくなってきた。でも、あきちゃんの目当てのムルシ族らしき人はいない。少数民族っぽい人は何人かいる。男の人は、ビーズの首飾りをしていて、たくさんポケットがついた皮のベルトをして、ストライプのピンクのスカートをはいている。女の人は、ビーズの首飾りのほかに、髪や腰の辺りにも色とりどりのビーズをつけていて、ひらひらの白いスカートをはいている。髪にはスカーフを巻いている。私はパイナップルを買おうと思ったが、意外と高いのでやめて帰ってきた。

 お昼の1時ごろ、再びマーケットへ。今度は、かなり盛り上がっている様子。足の踏み場もないほどに、みんな店を広げて、野菜や果物、そしてカゴや服なども売っている。オレンジとバナナを買った。そして、近くでお茶しながら、人々を眺めていた。ムルシの人はやっぱりいなかったけど、いろんな人たちを見ているだけでおもしろい

少年が、私のそばにいて、離れないなと思ったら、案の定「One money」 と言ってきた。なんだかもうこういうのにうんざりして、彼をつきとばすようにして、追いはらってしまった。どうしてどうしてこの国の子供たちはこうなのだろう。しかし無理もない。大人だって、旅行者をだまそうとしたり、ペンくれとか金くれとか言ってきたり、Youとかファランジとか言ってくるのだもの。そういうのを見て、この子達は育っているのだ。金がすべてではないと、金で買える幸せなんてちっぽけなものだと教えてあげたいが、今、私がこうして旅していられるのも、ある程度お金があるからだともいえる。なんだかわからなくなってきた。それでも、そんな状況の中でも、「1ブルくれ」とか、ちっぽけなことを言わずに、大きな夢を持ってほしいと思う。(映子)

パンッ
乾いた銃声がマーケットに響いた

 日は傾きはじめていたが、それでもまだたくさんの人や荷を運ぶロバや売り物のヤギで混沌としていた。僕たちはマーケットに面した食堂でお茶を飲み終わり、その人ごみのなかに足を踏み入れた、まさにそんな時だった。
(なんだ今の銃声は?)
そこにいたほとんどの人間と動物はそう思ったのだろう。5秒ほどの間のあと、マーケットはパニックになった。一斉に逃げ出す人々。ロバ、ヤギ、牛、馬、が一目散に逃げる。僕らも逃げた。命の危険を感じた。だから必死で逃げた。映子とはすぐにはぐれた。ビーチサンダルは柄がちぎれたのでその場で脱ぎ捨てた。突進してくるヤギたちをよけながら裸足で逃げた。

その翌日、この日隣の村のマーケットで発砲事件があって何人か死傷者が出た、と聞いた。狂った奴の仕業らしい。つるかめ、つるかめ。(昭浩)

ジンカの酒屋
ジンカの酒屋で一杯ひっかける。はちみつから作られるタッジというお酒
ジンカのマーケット
マーケットでフルーツを買う。ムルシ族はあらわれず

コンソのいやな思い出  3月16日

 このあたりでのバスの移動は楽しい。髪の毛を前半分はくりくりとしたアフロの五分狩りに後ろ半分は三つあみ、ピチッとしたTシャツに短いタイトスカートのような布を巻き、手には棒をもっていてウホウホと踊りそう、そんな少数民族の住む村をバスは通る。子供は素っ裸で遊び、水浴びしているおじちゃんは、馬のような巨大なものをブランブランさせている。上半身裸の女性もいるが、中にはバスが傍らを通るとき、胸をかくす人もいて、そんな姿を見るとホッする。

 途中の道には土産物を売る小さな子供が、全速力でバスと並走しながら叫ぶ。ある子供は、木でできた手作りの人形が鉄棒をくるくるまわるおもちゃ。ある子供は牛のウンコを固めたものを売っている。それは乾燥させてあって燃料になるのだと思う。
(牛のウンコなんか誰も買わないだろう)
 僕の予想に反して、ウンコはよく売れた。4つ5つまとめ買いする人が多い。

途中の村でウホウホの人たちがバスに乗ってきた。近くの町のマーケットに行くのだろう。売り物であるヤギも一緒だ。ウホウホ男は陽気で車内で流れる音楽にあわせて、リズミカルに踊っている。それを見ながら小さい子供も座席の上で一緒に踊っている

 コンソの村に着いた。今日はここで1泊。
 コンソの近くに見える山の斜面に木と藁でできた家々の村を散歩する。一見のどかな田舎の村のように見える村だが、人は最悪。大人たちは昼間から酔っ払い、目はすでにイッちゃっていてヤバイ感じ。一人の男が僕たちを呼び止める。
 「お前たちはパーミットをもっているのか!この村はパーミットなしでは入れない。」
 タカリに違いない。言いがかりをつけてお金を巻き上げるつもりだ。
 「お前たちはイリーガルだ
 真剣な顔をして言っているが、この男酒くさい。気づいてから相手にするのをやめた。
 「警察に逮捕されるぞ。」
そんなわけはない。こんな男相手にしても時間の無駄なので、無視してその場を立ち去る。
 酒臭い男の次は子供たちだ。
 「ユー! 1ブル」
 と言ってつきまとってくる。
 「時計見せて」
 時計を見せるとそれをとっていこうとする。それだけじゃない、カバンやポケットに手をいれて、中のものを盗もうとするのだ。目つきも悪い。追い払うと逆に図に乗ってくる。そのうち石を投げてくる始末。僕たちは逃げるようにその村を立ち去った。モラルがなさすぎる。なんでこんなにバカが多いんだ。ここはあんまりツーリスティックな場所ではないはずなので、純粋な素朴な人々が暮らしているイメージを持っていたが僕たちが訪れたところはそうではなかった。野蛮で柄が悪い。ツーリスティックなところのほうが、ツーリストオフィスがきちんと教育するからお行儀がいいようだ。

 この国は長くいればいるほどイヤな思いをする。一刻も早くこの国を出たい。それが正直な気持ちだ。(昭浩)

コンソ
みかけはのどかな村だが人は最悪。大人も子供も柄が悪い

エチオピア人にうんざり  3月17日

 朝、コンソのマーケットに行くが、特にまだ何にもなく、子供たちが「You! You!」 うるさい。早くこの町から出たい。10時ごろ、木の周りで、色とりどりのスカートをはいた女たちが、酒を売るためか、集まっていた。ちょうどそのとき、ヤベロ行きのローリーがあったので、すぐに乗り込む。
 荷台の中は、意外と空いている。葉っぱを噛んでる男が、何人かいる。一人はラリっているような感じになってきた。ハシシみたいなものらしい。ヤベロには、3時間くらいで着いた。

 この町も子供が「You! You!」とうるさい。大人も「You! You!」 うるさい。もう終わっている。このあたり、大人が狂っているのだ。どうしようもない。宿を探していると、手伝ってくれるのか、ただついてきてるだけなのか、一人の少年が話しかけてきた。思わず彼にめちゃめちゃ愚痴ってしまった。
「エチオピアはどう?」 ときかれて
ベリーバッド。人が悪すぎる。」・・・などなど。
悪かったかなと思ったけど、彼も自分はポリースだと言ってたけど本当は学生だった。ほかにも2人の少年が、宿探しを手伝ってくれたが、目当てはやっぱり金か物だろう。1人は、私たちの部屋にさりげなく入ってきて、なかなか出て行かない。そして「本をくれ」とか言ってくる。もう本当の本当にうんざりで、エチオピア人が大人も子供も大嫌いになってしまった。男は酒を飲み、草を噛んであほになり、女は水汲み、巻き運びなど忙しくて勉強もできない。本当にこの国は、今までで最悪の国だ。(映子)

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