12月26日〜1月6日
メキシコにはたくさんのマヤ遺跡がある。そのなかでも特に人気なのがパレンケ。ジャングルのなかにあって、神秘的な雰囲気が魅力的なのだろう。ここにはたくさん神殿があって、そこに登っては、上からの眺めを楽しみ、また別の神殿に登る。そんなことを繰り返していた。たっぷり半日は楽しめる遺跡だ。(昭浩)
メリダという街にやってきた。この街には特別なものがあるわけじゃない。
うーん、厳密にいうとメリダの考古学博物館には興味があったのでまったく何もないってわけじゃないんだ。
でもウシュマルというマヤ遺跡を見るという目的がなければ立ち寄らなかった街であることは確かだ。
楽しかった。そんな街が、だ。
夜、街の中心から離れた公園でのことだ。そこではステージが用意され、歌やダンスが披露されていた。
町内会の演奏会のノリで、素人にしちゃ上手でプロにしては下手、そんな歌と踊りだった。民族衣装を着た男女によるフォルクロリコ(メキシコの民謡舞踏)、マリアッチ(メキシコ版弦楽四重奏)、といった内容。
どれも明るく、華がある。楽しく、リズムがあった。
それだけではなかった。セントロ(街の中心)でも大きな舞台が用意されていて、そこでもライブコンサートが催されていた。
広場のまわりは屋台がずらりと並び、人々がその間をひしめきあっている。
音楽のライブはセントロから伸びるメインストリート上でもところどころやっていて、街は音楽と活気に満ちていた。
そんななかを身長3m以上はあるかと思われる巨大な悪魔―衣装の下で竹馬のようなものにのっている―の集団が闊歩している。悪魔は鳴らす太鼓の音にあわせて槍のようなフェイクの武器をふりまわしたり、人々を脅かすそぶりをみせたりと、悪魔のようにふるまっていた。
街はお祭りだった。街のなかは学園祭の雰囲気だった。なんかワクワクする。
今日は27日。まだまだメキシコのクリスマスは終らない。(昭浩)
メキシコのマヤの遺跡でどこが好きかという問いに多くの人はパレンケとこたえるだろう。しかし、たまにここウシュマルが一番という変わり者ものがいる。この僕がそうだ。ここもジャングルの海に囲まれたマヤ遺跡、でもパレンケほど規模は大きくない。ウシュマルのどこに惹かれるか。それは、魔法使いのピラミッドだ。
まずそのネーミングに惹かれる。そしてそのシルエット、楕円形、それもユニークで好きだ。近くでみるとレリーフがびっしりでなんとなく魔法使いというネーミングにあっている気がする。
まあ一風変わったモノ好きな人はぜひいってみるといいと思う。(昭浩)
チェチェンイッツァー、これもマヤ遺跡。いい加減マヤにも飽きてきた。多分ここがはじめてみるマヤ遺跡だったら感動していたかもしれないが、うーん正直もう食傷気味。修復されすぎていて、さらにピラミッドのまわりはきれいに草木を刈り取られていたりして、そんなところがなんだがマヤ遺跡のテーマパークみたいなのだ。
ジャングルが広がっているピラミッドの上からの眺めやヒスイの目を持つジャガーがピラミッドの中にあるあたりなんかは、悪くないんだけど・・・(昭浩)
「カンクン・ビーチに行こうと思うんだけどどう思う?」
日本の友達にそうきかれたら、間髪入れずこう答えるだろう。
やめとけ。
理由は簡単、何もないからだ。
カンクン・ビーチなんてアメリカ人がアザラシのようにゴロゴロするところ。日本人には毎日ゴロゴロなんて向かない。日本から近ければいいが、わざわざ時間とお金をかけてくるまでもない。白い砂と青い海だって丸一日見れば飽きるってもんだ。
しかし、僕は気に入った。実は年をまたいで3日連チャンで通ってしまった。
知らない人のために説明しておくと、カンクン市のダウンタウンとカンクン・ビーチリゾートとはけっこう離れている。ちなみに僕たちが通ったヒルトンホテルまでは10キロも離れている。
カンクン・ビーチは長細いラグーンが白の砂洲によってフタをされたようになっていて、そのフタである直線的に伸びる細い砂洲のうえにリゾートホテルが建っている。少し前まで何もなかったところで、ここ十年くらいの間に急激に発展したリゾート地なのである。
だからここにはメキシコのローカル色といったものがまるでない。アメリカそのものである。安食堂なんてものもなく、安いといえばマクドナルドやケンタッキーくらのもんである。ホテルだって高級ホテルばっかり。びっくりするほどすべての物価が高い。
僕たちにはカンクン・ビーチに泊まる予算なんて持ち合わせていない。だから、カンクン市のダウンタウンの安宿(といっても1人9ドルもする)に泊まっている。
ここのカンクンビーチのほとんどはホテルのプライベートビーチである。だから僕らはヒルトンホテルに侵入、いやいや訪問することにした。
ビーチはバス停からみるとちょうどホテルの裏手にあるので、ビーチに行くためにはホテルの中を通っていかなければいけない。
はじめはホテルの隅のほうからコソコソと隠れるようにしてビーチにはいっていったりしたが、これは怪しい。係りの人に見つかったら間違いなく尋問されるだろう。
だから、正面玄関から堂々と入ることにした。短パンにTシャツといったリゾートの格好をしてカップルで入っていけば、まず怪しまれることはない。
プールサイドで尋問を受けたという日本人旅行者にあったが、話しを聞くと、ジーンズにニット帽かぶってプールサイドうろうろしていたらしい。しかもヒゲの男ひとりで。そりゃ怪しすぎるよ。
ビーチにたどりつくと、空いているデッキチェアーを見つけてそこに陣取る。あとはそこで本を読んだり、海に入りにいったり、ヒルトンのきれいなプールに入りながら海を眺めていたりして過ごす。ジャグジーにつかるのもいい。
目の前には目が開けていられないほどまぶしい白の砂浜と恐ろしくきれいな青をたたえた海が存在している。
の旅ではこれまでもそしてこれからもありえない、そんな優雅なビーチリゾートライフを堪能させてもらった。おかげでいい年末年始を迎えることができた。カンクン万歳、だ。
しかし、僕は日本の友達にカンクンのビーチはどうだろうかと聞かれればこう答える。
やめとけ、と。(昭浩)
朝の9時、日本で2004年がはじまった。ちょうど僕が2枚目の食パンを食べている時だ。隣の部屋でインターネットをしていた人が教えてくれた。
15時間後にはここも2004年だ。
あまり実感がわかない。それはここ2年以上日本にいないからだと思うが、この街自体が年末といったことを感じさせないというのもあると思う。
僕も両親や友達に「あけましておめでとう」のメールを送った。日本は正月だけど自分はまだ2003年の年末にいる。奇妙な感じ。
夜、ごはんを食べ、ビールを飲んで、だんだん2004年が近づいてきたところでセントロに行った。
セントロでは2004年の幕開けに向けてすでに盛り上がっていた (昼間はそんな雰囲気ぜんぜんなかったのに) 。
ステージではライブをやっていて、大勢の人々が集まっていた。そこではシャンパンとぶどうが配られていた。(後で聞いたことだが、年が明けた瞬間にぶどうを12粒、願い事をしながら一気に食べる、という習慣がメキシコにあるらしい。)
カウントダウンがはじまる。ディエスシエテ、ディエスセイス・・・スペイン語だ・・・トレス、ドス、ウノ・・・
フェリス・アニョ・ヌエボ!(新年おめでとう!)
パン!パン!ヒュー ボン!ボン!
花火があがり、紙ふぶきが舞う。人々は抱き合い、新年を祝う。近くにいたメキシコ人たちとも握手をかわす。
音楽がはじまる。みんな踊りだす。広場や路上で。サルサのリズム。陽気なステップ。
僕らも少しだけステップを踏んでみた。
楽しい2004年のはじまり。今年もいいことがありそうだ。(昭浩)
新年早々、あきちゃんがはりきって海へ行ったが、今日の風の強いことといったら!!海には長く入らずに、海岸線をずーっと歩いた。ピラミッド型のホテルの中に入ってみた。中は温室のようになっていて、植物がジャングルのように生い茂っている。そこでしばしリゾート気分を満喫。自分がバックパッカーだと言うことを忘れる瞬間だった。
宿に戻ると、隣のベッドのマサヨさんとしばらく話していたけど、マサヨさんがいなくなってからシャワーを浴び、それから本格的に寝た。こりゃあ寝正月だなあと思いながら・・・
夜はとても静かだった。管理人のみやこさんはけんぞうくんとボリビアへ行ってしまったので、シェアめしもないし、ひろこさんはとうようくんとキューバへ行ってしまったし、イスラムヘーレスへ行った人たちは帰ってくるの遅いし。静かな静かな新年でした。もしかしたら、この調子で今年は穏やかな年になるのかも。
パッキングをしながら、同室のマサヨさんとまゆみさんと時々話した。2人ともよくしゃべるし、おもしろい。こんな居心地のいい日々も今日で最後だ。カンクンには、もう2度と来ないかもしれないな、マサヨさんが言ったそのセリフが、私にも当てはまるような気がした。メキシコにはまた来るつもりだけど、カンクンはどうかな。昼寝したおかげで全然眠くなかったけど、私は無理やり眠った。(映子)
同じ宿に泊まっている日本人に「すごいですね。」と言われることがある。
それは僕らが2年半旅を続けているという話をしたときに返ってくるリアクションだ。
すごいといわれればすごいようにも思えるが実際のところ本人はピンときていない。ピンと来ないどころか、冷静に考えてみればみるほど全然すごいことに思えない。多分言った本人も長期の旅人にあんまり出会ったことがないから、少し驚いて、それほど意味なんてものはなくそう口についてでただけなのだろう。
だって旅だよ。朝起きして定時にどこかに行かなければいけないわけじゃなく、イヤな上司がいるわけでもない。学校のようにテストだってあるわけじゃない。
楽しそうですね、といわれれば、そりゃ楽しいよ、と答えられるが、すごい、と言われても、はあー、と力なくため息にも似たリアクションをついてしまうばかりだ。
「旅慣れてますね。」といわれることもよくある。
もし、それが言葉どおりの意味であれば、その通りだ。2年半も旅の日常をおくっているのだから慣れていなきゃただのアンポンタンだ。しかし、その言葉に「旅上手」というニュアンスが含まれているとしたらそれは違う。ボラれたり、だまされたり、バスを乗り損ねたり、それにしょっちゅうアタフタしている。新しい国に入るたんびにテンパッテいたりしている。どうしようもないくらいに。
質問としてよくされるのが次の4つだ。
「どこの国行ったのですか?」「どの国が一番よかったのですか?」「アフリカってどうですか?」「危険なことありませんでしたか?」
これらのなかで最も答えづらいのが、どの国が一番よかったか?という質問だ。
どの国もそれぞれいいところがあって、一番よかった国なんて答えられるわけない。でも僕が逆の立場だったら同じ質問すると思う。
今、滞在しているカンクンでは結構このようなことを言われたり、質問されたりすることが多かった。
ちょうど年末年始にかかる時期だったので、短期の旅行者が多かったからだと思う。
短期旅行者にとって、働かずにフラフラ2年以上旅している僕たちは変わった人間に見えたのだろうが、僕は僕で、現役の勤め人に会うのは久しぶりなので彼らとの会話はとても新鮮で楽しかった。
こんな流浪の生活をしていても、仕事の話や経済の話といったマジメな話が僕は意外と好きなのだ。
そしてそんな会話をしているときに、日本社会と自分との間にある溝、感覚のズレのようなものを感じる。それがまた楽しい。
長期の旅人どうしの会話も楽しいが、短期旅行者との会話もそれはとても刺激的でたいへんよいものなのである。(昭浩)
島の朝の雰囲気が好きだ。
昨夜遅くまで騒がしかった町はまだ静か。人気もまばら。太陽だけはすでに本気で強い日差しを投げつけている。海はいつものままだ。
あと2,3時間もすれば人々とともに町はすっかり目覚め、すっかりにぎやかになるだろう。太陽も暑い国の太陽らしくますます本気をだして、激しく島中を照らすだろう。
夜と昼の間の人や動物や植物がまだ起ききっていないわずかな静寂な空気がいい。
それが島の朝だ。
僕たちは昨日からイスラムヘーレスというカンクンからバスとボートで2時間くらいの砂洲でできた島にきている。島の北端にはこぢんまりとした町があって、そこに僕らは宿をとった。
ここは細長い島で片側の海からもう一方の海まで5分も歩けばついてしまう。そのくらいの幅しかない。
町には高いビルはなく、せいぜい3階建てのホテルが高い建物と言えるくらい。お土産屋、レストラン、商店などが並ぶ。リゾート地なんだけど庶民的、でも人々でにぎわっている。まだそれほど有名でなかった頃のバリ島クタビーチ周辺を思い出させる。
カンクンのホテルゾーンのビーチもきれいだが、バスで30分の距離を通うのはタルい。しかもヒルトンのプライベートビーチに勝手に潜入、いや失礼訪問だった、をしているので少し後ろめたい気もする。イスラムヘーレスのほうが僕たちの身の丈にあっている。
島の北にあるビーチに行った。サングラスをしていてもまぶしい白砂のビーチだ。朝の10時だというのに夏の甲子園のような暑さだ。そこでふたり十分寝転べる大きなベッドとパラソルを借りた。
それから夕方まで僕らは大きなベッドの上でごろごろした。本を読んだり、ビールを飲んだり、ポテチをぼりぼり食べたり、眠くなったら眠り、汗をかいたら海に入る。そして音楽を聴き、ビールを飲み、そしてまた眠る。
島の夕暮れはさみしい。夕暮れは島でなくてもさみしいもんだけど島だとなおさらさみしい。
海も空もすべてものがあんなにまぶしかったのに全部その輝きを失ってしまう。
陽は沈み淡いピンクの色彩をわずかに残し、それもしだいに闇に埋れていった。
そして島の一日が終った。(昭浩)
僕たちの旅はガンガン観光する旅である。
旅のはじめの頃に比べパワーダウンしているのは否めないが、それでも長期旅行者の割に遺跡やら博物館やらいわゆる観光スポットを精力的にまわっているほうだと思う。
だから僕らの旅の日常というものは、ある一日は遺跡や名所、博物館などを1,2箇所まわる、ある一日は移動、大雑把に言えばだいたいそういった日々の繰り返しだ。
こんなことずっと繰り返していたら疲れてくるので、雰囲気がよくて過ごしやすい場所があったら休む。休むといっても部屋で一日ごろごろしているわけじゃなく、HPの作成をしたり、買い物や散歩にいったりして過ごす。
カンクンでは散歩がわりにヒルトンホテルのビーチに行っていた。ここイスラムへーレスでもビーチで休養だ。そんな日々もカンクンから数えて6日になる。休みすぎだ。
朝起きて、昨晩買っておいたメロンパンをひとつ食べ、それから海に行く。そんな休暇も今日までだ。冬休みも終わりだ。日本だってもう仕事はじめ。僕らも明日から旅がはじまる。こういうふうに書くと旅するのが仕事みたいだな。これで稼げりゃいうことないんだけど・・・。(昭浩)
美しい海にいると人は詩人になれる。いや哲学者かもしれない。
昨日イスラムヘーレスのノースビーチのきれいな海のなかから浜辺の風景を見ていた。その時どこからか声がふってきた。
「決める・・・」
・・・
そっか。そういうことか。
すべてが解決した。もやもやした様々な考えや思いに1本の筋が入りクリアになった。
例えばこういうことだ。もっとお金があったらなあ・・・そう思っている人は決して幸せになれない。たとえお金があってもだ。
幸せであることを決めればいいのだ。そう決めなきゃだめなんだ。
原因があって結果があるのではない。結果をまず決めるのだ。原因はそれによってつくりだされるのだ。
目からウロコとはこういうことだろう。こんな簡単なことどうして気がつかなかったのだろう。
海のなかで仁王立ちするそのときの僕の姿はハタからみれば赤黒く焼けたでっぷりとした日本のふとっちょ男だったが、そのときの僕は海のなかの哲学者であった。(昭浩)
純白の砂、珊瑚、ドリフト、コスメルでのダイビングのポイントはこの3つだ。
珊瑚の覆う岩の間を、速い流れにのりながら、飛び回るピンクや黄色の熱帯魚を見たり、岩の間や洞窟をくぐり抜けたりする。迷路のような入りくんだ岩場を抜けるとそこは深い青のドロップオフだったり、白い砂地だったりするのである。
真っ白な砂地のところはひときわ明るく、まるでスポットライトのあたる舞台にいるようだ。透明度は40〜50m。まわりはほとんどクリアに見える。
中層に浮遊しながらただ流れにまかせるというのも気持ちいい。
水面から潜行するときも20m下の白砂の海底までピカピカに掃除した直後のプールのようにきれいに見透すことができるので、それはもうふわふわと空を飛んでいる心地なのだ。
透明度の高い海では得てしてそうであるのだが、ここの海は特別魚影が濃いわけではない。―もちろん、日本の伊豆あたりの海と比べれば、比較にならないほど多い。―それでも、海ガメ、サメ、グランドバラクーダ、クイーンエンジェルフィッシュといった興味深い魚たちと出会えたし、なかでも印象的だったのはマダラトビエイだ。マンタほどの大きさはないにしても無数の斑点を背中に散りばめたエイが透きとおる海のなかを優雅に泳でいた。
僕たちのなかに記憶されたコスメルの海は青く、白く、限りなく鮮やかだ。(昭浩)