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シリアレバノン旅行記

 

11月20日〜12月10日

シリアとレバノンの旅は遺跡めぐりが中心の旅である。遺跡は、大きく分けると二つのカテゴリーに分かれる。ひとつがローマ遺跡でもうひとつが十字軍の城だ。ローマ遺跡で予想に反してインパクトがあったのがバールベック。城の中ではクラック・ディシュバリエ城がダントツに良かった。

アラブ料理に関しては、トルコに比べ料理のバリエーションはグンと減るが、イランの時のように耐えられないほどではない。ホンモスというこっちの主食である豆のペーストは何回食べても飽きないし、しかも安い。

日本から見ると、中東は危険な雰囲気を醸し出しているが、治安はすこぶるいい。宿も交通機関も充実していて、大変旅行しやすいところ。実際旅をしていてそう切に感じた。
そしてもうひとつ意外に感じたのは、シリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルを通してもっとも落ち着ける場所だったのが、以前泥沼の内戦のあったベイルートだったということだ。
想像していたのとは違ったいろんなところで意外なことの多かった旅だった。(昭浩)

シリアの地図

シリア入国  11月20日

トルコのアンタクヤで余ったリラをすべてシリアポンドに替えて、10時のバスに乗った。国境まで約1時間、手続きはわりとスムーズだった。それでも出入国で約1時間かかった。シリア入国の時、ピンクの紙を書くようにと渡されるけど、すべてアラビア語表記、あれれー??いきなりわからない。周りの人が教えてくれたのは、NameとSurnameだけ。名前しか書いてない状態で、まあいいや、えいっと出すと、「Father’s name?」と聞かれて父の名を窓口に向かって叫ぶ。続いて「Mather’s name?」と聞かれて、母の名前を叫ぶ。あきちゃんも同じように聞かれて、同じように叫ぶ。イスラムの国では、親の名前が重要なのだろうか?ビザの申請のときにも、書いたような気がする。まあ、とにかくピンクの紙は、名前だけでOKだった。こんなんでいいの?と思ったけど、無事入国。(映子)

僕たちはシリア流の歓迎を受けて、このアレッポの町にやってきた。
僕たちの乗ったバスはアレッポの町に入ると、バスターミナルへは行かず渋滞する幹線道路のど真ん中で停車した。渋滞してこれ以上進めないからここで降りろと言う。
「そんなこと言われたって、ここがどこだかさっぱりわからないよー」
しかし、僕たちには迷うヒマすらなかった。バスを降り、大きい荷物を受け取ろうとすると、バゲージキャビンにいれたはずの大きなバックパックがないのである。まわりをみわたすと、20mくらい先を僕らのバックパックをトランクに詰め込んだタクシーがすでに走っているではないか。もちろん行き先も行ってないし、料金も聞いていない。あせったね、このときは。とっさにタクシー目がけてふたりして走っていた。
この国の人はなんて強引なのだ。それが、僕のシリア人に抱いた最初の印象である。(昭浩)

アレッポの町は都会で、アンタクヤ以上にごみごみしている。イランと同じような文字であふれかえり、イスラム色も強く感じられる。女の人は黒いベールをかぶっている人が多く、男の人は、赤いチェックのカフィーヤと呼ばれる布と、黒い輪っかを頭にのせている。違う国に来たのだ。久々に新鮮な感動を覚えた。(映子)

シリアの人はトルコ人に似ていなくもないが、やっぱりトルコ人より濃い顔立ちのように思える。みんな人懐っこく僕たちに声をかけてくる。国境を越えたら、そこには違う文化があり、いろんな刺激が待っている。旅をしていて一番楽しい瞬間かもしれない。(昭浩)

アレッポのスーク
スーク。活気があって楽しい
アレッポの町
アレッポの町の中心付近

アレッポ城とアザーン、そしてシリアはラマダン中 11月21日

難攻不落のアレッポ城。入り口から門にかけてとても立派で、中はどんなだろうとドキドキしながら入ったけれど、たいしたことなかった。ほとんど崩れて何もないところで、工事中か、修復済みでとても新しくきれいになっているか、どちらかだった。真ん中の道を進んで、向こう側の城壁のところまで来て一休み。すると、アザーンが流れてきた。それは、街中のアザーンがすべてここに集まってきているような感じで、大音響だった。スモッグに煙る街を見ながら、アザーンを聞いていた。街は色がなくて、土色というか、灰色というか、とても地味で、やたらモスクが多かった。
 城内の見所と思われるところを片っ端から歩いてみたけれど、やっぱり門が一番よかった。そして、あのアザーン。今までずっとイスラム教の国にいて、いろんなところでアザーンを聞いてきたけれど、この日のアザーンが一番心に残っている。(映子)

シリアは今ラマダン中である。でも旅人の僕らにはあまり関係ない。レストランは昼間だって開いている。照明をつけていない薄暗い店内に入ると、柱の陰でシリア人が昼飯を食べていた。「こいつら飯喰ってんじゃん!」ちょっと拍子ぬけ。
でもそれはたぶんごく一部の人たちで、多くの人は断食をしているようである。夕方日没の頃町の中にいればはっきりわかる。日が暮れはじめると食べ物屋以外のお店はみんなシャッターを下ろしはじめる。道路がやたら混雑する。運転も殺気だっていて荒い。レストランはどこも混んでる。テーブルの上にたくさんの料理をのせて、大きい男たちが晩ごはんを待つ子供のように、今か今かと日没を待っている。
「パンッパンッ」
日が沈んだ4時半頃、大きな合図が鳴るとみんなが一斉に食べはじめる。抑えられていた食への欲求が一気に開放される。町中が笑顔だ。楽しいエネルギーが満ちている。お祭りのような雰囲気だ。不便なことも多いこのラマダンも、普段とは違う人々の営みが垣間見れるので楽しい。(昭浩)

アレッポ城
二重の砦となっているアレッポ城の門
アレッポ城から見たアレッポの町
町中のアザーンが響きわたっていた

ハマ 11月22日・23日

中東の移動は楽である。中東の国々はどこも小さい。そして、道路が整備されている。アレッポから3時間ほどで次の目的地のハマに着いてしまった。
 ハマは世界最大の水車のある町。観光にはそれほど力をいれていないのか、世界最大の水車は町から少し離れたところで寂しそうにたたずんでいた。それ以外にもいくつかたくさんの水車がこの町にはある。雨の少なそうな乾燥した場所にある町なのに、水車っていうのもなんかミスマッチのような気がする。ミスマッチだけど、水車は町の風景に潤いを与えてくれる。町には僕たちが生まれる以前の年代モノの黄色いベンツのタクシーが通りを流している。カエルたくさんの沼のようによどんだ川、まわりには背丈より高い草がぼうぼう、そこに壊れかけの今は使われていない水車がある。そんななかをシリア人に声をかけられながら散歩する。それが、ハマでの僕らの生活だった。(昭浩)

ハマの水車
たかが水車されど水車。風情があります
 アシュシャマミス城
広い荒野に囲まれたアシュシャマミス城

オバQとパルミラへ 11月24日

バスに乗ったらオバQだらけ。僕たち以外はみんなオバQ。いよいよアラブである。

アラブ人と聞いて、カフィーヤという布を頭にかけその上に黒い輪をのせたスタイルを思い浮かべる人は多いと思う。アラファト議長がやっているアレである。僕らはあれをオバQと呼んでいる。白い布をかぶっているとオバケのQ太郎みたいだからだ。
それまで、オバQそんなに見ないねー、なんて言っていたが、パルミラ行きのバスの中は、僕ら以外のほとんどが赤オバQでだった。
パルミラまでの道は荒れた砂漠の中を走るが、砂漠に似合わず天気は雨。砂漠で雨が降ると大変だ。降った雨は、その乾いた大地にスポンジのように吸収されるイメージがあるけれど、本当はその逆。木とか生えていないから保水能力が著しく低い。まったくコントロールされない水たちが勝手に低いところへと集まってきて、そのうち部分的な洪水になる。そして場所によっては砂漠を横切るアスファルトの道をその水の下に沈めてしまう。そのために川渡りのようなところが何箇所かあって、時間がかかった。
ようやくついたパルミラだけど、太陽が一日照っていないから寒い。日本の冬並に寒い。しかもホテルのヒーターはつかない。 暑い国だと思ったシリアは、日が差さなければ恐ろしく寒い国なのだと身にしみて感じた。(昭浩)

 バスの中のオバQ
オバQに囲まれると中東を旅しているって実感しちゃうなあ

パルミラ遺跡   11月25日

早起きして遺跡を見に行こう!と張り切っていた。けれど、寒い。とにかく寒い。遺跡どころではない寒さなので、先に博物館へ行くことにした。すると博物館の前でたむろしているおやじに、「墓へ行かないか?」と言われた。壁画が美しいと言われている三兄弟の墓と言う見所が、少し離れたところにあるのだ。思っていたよりは安かったので行くことにした。
先に博物館を見た後、墓の谷へと向かった。最初に見た墓は、壁画はなく、墓自体はたいしたことはない。でも塔の上に登ると景色がいい。他にも崩れかけの塔がいくつも見える。ただ、とても寒かったので、長くはいられない。
三兄弟の墓には壁画がある。古い壁画が残っているのはすごいなとは思うけど、そんなに感動するほどのものではない。それでも私たちは、「行く時間あるかなあ」なんて言っていた所に、すんなりと行けたことに満足していた。

そしていよいよ、パルミラ遺跡メインのベル神殿へ。博物館で模型を見たので、崩れているところも、昔の姿がイメージできた。柱も壁もかなりたくさん残っている。パルミラを三大がっかりと言う人がいるらしい。けど全然そんなことはないと思った。他の神殿や住居跡などは無料で見ることができる。かなり広い範囲にあって、見ごたえがある。そして、写真を撮るにも、絵になる風景がたくさんあった。

>時々物売りや、「らくだはらくだ」と言いながららくだ使いがやってきてうざい。遺跡はいいけど、この町はあんまり好きになれなかった。人々が観光客を見る目はハイエナのようで、常に獲物を狙っている。喰らいつこうと必死で、喰らいついたら離れない。そんな勢いがある。でも日本人旅行者とのいい出会いがあった。(映子)

 世界遺産パルミラ遺跡
賛否意見が分かれるパルミラ。遺跡は広範囲に広がっている。僕は好きだ
 アラブ城
パルミラの遺跡を見守るようにたつアラブ城。朝日夕日のきれいなポイントでもある

クラック・デ・シュバリエ  11月26日

朝7時半、ホムス行きのカルナック(国営)バスに乗った。バスにはテレビがついている。ブルマン(私営)バスのようにコメディをやったりしない。ただそこにあるだけで、つけないのだ。2時間くらいでホムスに着いた。
ホムスのバス停で、親切なおじさんがミクロバス乗り場を教えてくれた。あきちゃんは異常に警戒して、*「おまえはタクシードライバーか?」と言ったけれど、実はいい人だったのだ。パルミラへ行くときに、ブルマンバスの人たちは、「ミクロバスはない」と嘘をついたので、疑ってしまうのもまあ無理もないことでもある。

クラック・デ・シュバリエまではセルビスしかなく、なぜか荷物代を取ろうとするので、むかついて他を探して歩いた。それでもやっぱりその車しかないみたい。親切なお兄ちゃんが間に入って交渉してくれて、何とかOK。隣りに座ったおじいちゃんはニコニコ顔ですごくいい人。だってその悪者顔のドライバーがとてもいい顔になったんだもの。周りの人たちの雰囲気が急に良くなった。こういう人っているもんだ。あやかりたい。

クラック・デ・シュバリエ、この城はでかい。そしてよく残っている。十字軍の残した城とあって元教会がある。イスラムが入ってきて、モスクに変わった形跡もある。たくさんのトイレ、広い倉庫、地下深くまでいけるアラブ風呂、そしていたるところに登れる階段があり、いくつも塔や屋根に登った。私はバテ気味だったが、あきちゃんはなぜか元気だった。少年のようにいろんなところを探検したがった。でも、その夜、彼は真っ先に眠りについたのだった。(映子)

*タクシードライバーは、バス停に行きたいのにタクシー乗り場に連れて行って、「もうバスはない、タクシーでしか行けない。」なんてウソを言うことがある。)

 世界遺産クラックディシュバリエ
ラピュタのシータが捕らえられていた城のモデルといわれている美しい城

タルトゥースへの長い道のり  11月27日

7時におきて7時半に朝食。のはずだったのに、頼んでおいた宿の兄ちゃんが現れない。兄ちゃんと言ってもここのチーフ(またはオーナー?とにかくちょっとえらい人)らしい。雇われのおじちゃんが来て、「10分(で来る)」と言っても一向に現れる気配なし。そのおじちゃんは探しに行ったのか、どこかに行ってしまった。私はお城の見えるところで、3匹の犬と一緒に日なたぼっこして待つことにした。心を落ち着かせようと思ったのだ。
9時頃にあまりにお腹がすいてグレープフルーツを食べた。私もあきちゃんもあまりの遅さにキレそうになってきて、おじちゃんが戻ってきたところを捕まえて「彼の家へ行け」と言った。ところが、行ったところは昨日ご飯を食べた近くのレストラン。そこのチーフらしき人(オカマっぽいので私たちはオカマちゃんと呼んでいた)が、「プロブレム?」と聞くので、「イエス!」と答えて、少し興奮気味に事情を話した。オカマちゃんは、雇われのおじちゃんと話したり、電話をしたりしてくれて、紅茶も入れてくれた。そして、私たちが紅茶を飲み始めた頃、「彼はもう来てるから、ゆっくり飲んでもいいし、早く行きたければすぐに行けばいい」と言われた。2時間以上も待っていたんだからそりゃあ早く行きたいよ!!と思った私たちは、急いで紅茶を飲みほした。
宿に戻るとあら不思議。どこから現れたのか、あの兄ちゃんがレストランに座っている。私たちのパスポートはカウンターに置かれていた。そう、私たちがすぐに出発できなかったのは、パスポートを人質に取られていたからなのだ。私は怒りが込み上げてきて、もう何も言えなくなった。彼は謝っていたけど、とても許す気にはなれなかった。酒くさい息で言い訳されても、いやな気分になるだけだ。要は昨日飲みすぎて寝坊したのだ。ばかばかしい。そんなことで3時間近くも待たされるなんて。雇われのおじちゃんにだけはお礼とさよならを言って宿を後にした。

セルビスに乗ってハイウェイに出た。そこから、タルトゥースへ行くのは予想以上に大変だった。ボロいバスを捕まえることができたんだけど、それは途中までしか行かなかった。またしてもセルビスかバスを捕まえなければならない。
ハイウェイで待っていると、反対車線からでかいトラックに乗ったおやじがやってきて、「乗っていけ」と言う。反対側にいるのにタルトゥースまで乗っけてくれると言う。なんだかラッキーだなあと乗ったのはいいのだけれど、途中で止まった。おやじは何をやっているのか知らないけど、私のほうのドアを開けて、シートの下で何かを探している。そして、さりげなくお尻や腕を触ってくる。乗る前から、「早く乗れ」と腰に手をまわしてきてちょっと気持ちが悪かったのであきちゃんにおやじの隣に乗ってもらったのだ。おやじはまた車を運転し始めたのだけれど、今度は私に「隣に座れ」と言ってくる。「No」と言ってかたくなに拒否していると、また車を止めた。あまりにも気持ち悪いので、荷物を降ろして降りることにした。おやじも降りてきて「待て」とか言ってきたけれど、私たちは逃げるように立ち去った。おやじもあきらめてタルトゥース方向へ走り去った。

その後またハイウェイで待って、やっとタルトゥース行きのセルビスが来た。そしてタルトゥースに着いて、さらにセルビスに乗って宿にたどり着いた。ここまででやっと昼過ぎ。だけど何だかとっても長―い一日が終わったようにぐったりと疲れてしまった。すんなり行ければ1時間くらいでつくところなのに。おかげでマルカブ城も行けなかった。あーあ。(映子)

中東は痴漢が多い。女性の1人旅(特に日本人)はよく狙われる。二人で旅しててもこれだからね。途中ヨガリ声のような声で「マダ〜ム マダ〜ム」と言ってくる。気持ちわるいったらありゃしない。(昭浩)

マルカブ城に行けずサラディーン城へ 11月28日

ラタキアまでは1時間と近いので、今日こそマルカブ城に行くぞと思っていたのだけれど・・・・またしてもハプニング。ホテルからセルビス乗り場まで重い荷物を背負って歩くこと約20分。9時発のバスに乗ったとき、あきちゃんがズボンのポケットを探った。「あ!」ホテルのカギを持ってきてしまったのだ。チケット売りの兄ちゃんが「時間は充分ある」と言うのであきちゃんはホテルにカギを返しに行ってしまった。でも時間なんてそんなにあるわけないよな。人もいっぱい乗ってきたし・・・。案の定、バスは動き出した。運転手に「待って!」というように身振りをしたら、「降りろ!」という風にされた。1人でがんばって荷物を降ろしていると、リュックに付けていた水のペットボトルが落ちて割れた。いやーな感じ。今日もついてない。あきちゃんが汗びっしょりになって走って帰ってきたけど、つらい思いをした私は、とても温かく迎えるなんてできなかった。

ラタキアに着いたのはもうお昼頃。宿の兄ちゃんと話して、情報ノートも見て、サラディーン城のほうが近いからそっちに行くことに決定。セルビスはハッフェというところまでしか行かないが、そのまま少しお金を出して、サラディーン城まで行ってもらった。くねくねの山道を下りていってまた登る。1つ谷を越えて山の上にある城にたどり着いた。この時1時40分。2時にしまると言われたので、ものすごく駆け足で見た。本当はゆっくり見たかったけど、お城の中は広くてきりがないし、どこも一緒。逆に短くてよかったかもしれない。サラディーン城は向こうの山から見た姿が一番良かった。周りは山ばかりで、山の上に浮かんでいるような城だった。(映子)

サラディーン城
山の上にある木々に包まれたサラディーン城。とても絵になる

やっとマルカブ城そして二人は別々の道を行く  11月29日

3日越しの念願かなってマルカブ城へ行った。今日は風が強い。バニアスで、親切な兄ちゃんにセルビスに乗せてもらった。はずだったが、セルビスは途中で止まる。歩いていけと言う。この風の中を!!飛ばされそうになりながら歩いて登っていると、軽トラみたいなのが止まってくれて乗っけてくれた。どうもありがとう。旅をしてると、特にムスリムの国の人々はとても親切でそれが当たり前のように思ってしまうけど、感謝の気持ちを忘れてはいけないなと思う。
マルカブ城は、黒っぽい石を積んで造ってある。石の積み方がちょっといいかげんな気がする。見所は教会のフレスコ画と城から見える地中海。天気が悪く、海は荒れに荒れていた。そして、とにかく風が強くて、寒かったので早々に城を後にした。

マルカブ城
ここからの地中海のパノラマはすばらしい。城の中はしょぼい

ラタキアに戻ると、あきちゃんはすぐにウガリットヘ向かった。世界遺産だからどうしても見ておきたいらしい。私は大事なものはみんな「〜博物館にある」といつもガイドブックに書いているので、興ざめしていた。そこで1人ラタキア博物館に行った。開いているのか閉まっているのかわからないような博物館で、客は私だけなので、おじさんはいちいちカギを開けてくれた。案の定、ウガリットからの出土品がたくさんあった。珍しかったのは、陶器の棺。後は私の好きなランプ、いろいろな模様のものを見て、アラジンの魔法のランプを思い出していた。(映子)

 世界遺産ウガリット
誰もいない紀元前の都市国家遺跡ウガリットでひとり悠久のときをしのぶのもいい

レバノン入国とトリポリの町  11月30日

11時のバスだと聞いていた。1時間前集合は旅の鉄則なので、9時半くらいに宿を出た。宿の兄ちゃんは、少し不思議そうな顔をしていたけどいいのだ。バス停にはいつもいろんな人がいて、見ていると面白い。ここは、靴磨きの少年と、物乞いが多い。一生懸命に靴を磨いている少年の姿は美しい。新聞売りの兄ちゃんはガムをくれた。アラビックコーヒーを売ってるおやじもいる。バスは、定刻より10分ほど遅れて出発した。
ラタキアからトリポリへ向かうバスの乗客は、私たちを入れて5〜6人といったところ。しかも、国境の手前で一人降りた。シリア出国、レバノン入国共にスムーズ。荷物チェックもなし。しかもレバノンビザはタダだった。ラッキー。今日も風が強くて寒いので、手続きのために外に出るたびに「寒―い」と言いながら走っていた。

トリポリの町には、いつの間にか着いていた。あまりに早くて、違う国に来たという実感はない。人々も街の雰囲気もあまり変わらない。大都会トリポリ。クラクションがうるさい町だった。シリア入国の日みたいに、道端で降ろされたけど、幸い宿へは歩いて行けた。

荷物を置いてすぐにセント・ジル要塞へ行った。途中で迷路のような旧市街を歩いて、石鹸屋のあるキャラバンサライを見つけた。セント・ジル要塞は、トリポリの町が見渡せる。地中海も見える。住宅が密集している。東京よりも混みあっているように思えた。要塞の上を、そして町のあちこちでも、鳥が群れを作って旋回していた。

 弾痕の残るトリポリの建物の壁
たくさんの弾痕ののこる壁。内戦の傷跡はまだのこっている
トリポリの街
要塞からみたトリポリの街。アラブぽい建物の向こうに地中海が広がる

レバノン杉 12月1日

トリポリから車で約1時間、レバノン杉の森の麓の町ブシャーレがある。雪をかぶった尾根の麓の深い谷間にある町で赤い瓦が並んでいる。そこに教会の鐘の音が鳴り響く。さすが中東のスイスと呼ばれるだけのことはある。ここがアラブであることを忘れてしまう。僕たちは、この美しい山あいの村ブシャーレから2時間ほど登ったところにあるレバノン杉の森へと向かった。紀元前はこの地域をおおいに潤した輸出品のレバノン杉であるが、今ではすっかいその数は減ってしまい、ほんの一角の敷地にその森が残されているだけだった。杉は柵で囲って保護されていた。レバノン杉のシルエットはきれいだ。それは完成されたプロポーションのクリスマスツリーのように見えた。プロの職人による巨大な盆栽にも見えた。しかし、レバノン杉よりもこのまわりの山と谷の風景のほうが僕は気に入っている。 (昭浩)

レバノン杉の町、ブシャーレ
雪ののこる山に囲まれた町ブシャーレ。ここでは教会の鐘が鳴り響いていた
 世界遺産レバノン杉
レバノン杉。このあたりではスキーもできる

ベイルート 12月3日〜12月6日

トリポリで3泊した後、ベイルートへと向かった。レバノンは日本の岐阜県ほどの大きさしかない。ほとんどのところへはベイルートから行って帰って来れる。ベイルートを中心にしてレバノンを旅する人は多い。僕たちもベイルートからビブロスやバールベックといった遺跡に日帰りで観光にいった。

ビブロス 12月4日

世界で最も古い都市国家のひとつビブロス。バイブルの語源ともなっている。アルファベットを作ったフェニキア人がここを中心として繁栄したところとして、歴史的にはたいへん有名な場所だ。しかし、この遺跡、ローマによってローマ色に上塗りされていて、いまひとつ。紀元前の頃の跡もあるが、それからその頃の町の様子をイメージするのは難しい。有名な遺跡なだけあって、中途半端に観光客がぽつぽついて、中途半端にユネスコによってか整備されている。目の前に地中海は見えるが特別雰囲気がいいわけでもない。まあ、それでもいい。はじめから期待はしていなかった。あのビブロスの地に行った、ということに意味があるのだ。そう言い聞かせて、ベイルートの宿へ戻っていった。(昭浩)

世界遺産ビブロス
歴史上では派手に登場するビブロス

驚愕のバールベック 12月5日

でっけぇー!これまで見たローマ遺跡のなかで一番迫力があった。神殿の土台となっている切り出された石、柱の一個一個の石がとにかく大きい。
人のウンチクの受け売りを書かせていただく。この神殿の南に史上最大最重量の切り石が置き去りにされている。神殿を造るために運んできたらしいのだが、途中で動かなくなって、そのまま置き去りになっている。長さ21.5m幅4m奥行き4.5m、重さ21000トン。僕たちも見に行った。確かに大きい。でもバールベックを構成している石のひとつひとつもかなり大きい。そこで思う疑問がある。どうやってこれらの石を運んだのか?今世界一重いものを運べるのがアメリカナサのロケット発射台。それは1000トンのものが運べるらしい。シーザーが当時どんなに強い権力をもって、どんなに気合をいれてつくったとしても、今の技術をしてもかなり作るのに困難であろうバールベックをどうやってつくりあげたのか、本当に疑問である。当時のまま残っていれば、たいそう大きな神殿だったに違いない。なかなか感動的な遺跡だった。(昭浩)

世界遺産バールベック
比較のため柱の下に映子に立ってもらったが、この迫力は写真では伝わらない
世界一思い切石
世界で一番重い切石。。ふーんという感じ。ギネスブックにはのっているのかなあ

レバノン人は商売がうまい

レバノン人は商売が上手だ。それは、ボッていかにおおくの儲けをだすのがうまいという意味ではない。相手に満足度であったり、価値であったり、そういうものを与えるのがうまいということだ。アプローチのしかたも同じアラブ人でありながらシリア人とレバノン人では違う。シリア人はストレートに売り込んでくる猪突盲信型に対し、レバノン人はもう少しアプローチが柔らかい。トリポリの石鹸屋なんか、こちらが興味を示すまで、静かで、あまり多くを語ってこないのに、一旦興味を示すと、急に饒舌になりセールスをはじめる。セールストークもその商品の価値について語り、値段のことには一切触れない。もちろん、こちらの質問にも的確な答えが帰ってくる。

ベイルートの宿の主人ザへールも値段交渉しようとすると、いかにこのホテルが快適なのかを語っていた。それを聞いていると値段を安くしてもらう気もなくなってしまった。

スターバックスでは、僕が頼んだ飲み物がイメージしていたのと違い、不服そうな顔をしていたら、僕の反応に敏感に感じ取り、もう一杯スペシャルな飲み物を持ってきてくれた。

なぜ、レバノンはこれほど発達しているのか?なぜ?これだけ物価が高いのか?
隣国シリアで30円しないサンドイッチがレバノンでは120円。スターバックスのコーヒーは日本の料金とあまりかわらない。この国に特別な資源があるわけではない。石油がとれるわけでもない。
その答えのヒントはこのあたりにあるんじゃないだろうかと僕は考えた。価値を高める努力。これがとても大切なことなのだ。価値を高める努力こそが商売のキーと言える。宿の主人のザヘールは、語るだけでなく、オーナー自ら常にトイレがきれいかどうかチェックし、少しでも汚れていると自らすぐに掃除をしている。各部屋にひとつずつある、衛星TV、インターネットのフリーサービス・・・彼は常に価値の向上を怠らない。

今のレバノンあたりで盛んに貿易をして稼いでいた商売上手のフェニキア人。その時代からの流れなのだろうか。価値を高め、信用を高める努力をしつづけ、レバノンは発展してきたんじゃないかと僕は勝手に想像を膨らましていた。(昭浩)

トリポリ石鹸
オリーブをベースにハーブやはちみつなどいろんなものが配合されている石鹸

ベイルート サブラ地区

パレスチナ人って何?日本でパレスチナ関係のニュースを見ているときいつもそう思っていた。そんな疑問を抱いても、その頃の僕は、あまり関心がないためそれ以上パレスチナについて調べようとはしなかった。パレスチナ人とはパレスチナの地に住むアラブ人である。だからシリアやレバノンに住むアラブ人と同じである。住んでいる場所がパレスチナであっただけのことだ。
イスラエルができて、そこに今のイスラエルまたはヨルダン川西岸(ウエストバンク)に住んでいたパレスチナ人がその場所を追い出されるように、ヨルダンに移ってくる。一時はパレスチナ難民を大量に受け入れたヨルダンだが、事情が変わって、今度は逆にパレスチナ難民を追い出しにかかる。そのためパレスチナ難民はレバノンへと移動する。その時の難民キャンプのあったところのひとつがベイルートのサブラ地区である。
ここサブラ地区は、大虐殺のあった場所として有名。イスラエル軍が南ベイルートに侵攻した後に起きたことなので、イスラエル軍によるものかなと思われがちであるが、実際は、内戦当時、反パレスチナであったキリスト教マロン派のレバノン人民兵の手によってそれは行なわれた。イスラエル軍がパレスチナ難民キャンプを囲み、誰もそこから逃げられないようにし、何の武器も持たない難民を徹底的に殺した。簡単にいえばイスラエル兵がお膳立てをし、同じアラブ人であるレバノン人民兵が殺ったということだ。
そのサブラ地区は、今でもパレスチナ難民キャンプと呼ばれているエリアで、その時の生き残ったものたちや外国から戻ってきたものたちが暮らしている。
難民キャンプといっても別にそこにテントがたくさんあるようなところではなかった。ビルもあるし、商店街もある。少し外れるとトタンのような造りの粗末なバラックのならぶ場所があるのだが、そこだけ特別な境界線があるわけじゃないので、その場所にいってもどこからどこが難民キャンプエリアかわからない。誰がパレスチナ人で誰がレバノン人なんていうのもわかるわけがない。同じアラブ人だ。
そこには、虐殺というそんなことがあった雰囲気もなかったし、パレスチナ難民キャンプと聞いて想像されるイメージの雰囲気もなかった。あまりにも自然に普通にベイルートに溶け込んでいたのが、逆に驚きであった。(昭浩)

ベイルートの街

本当にここで10数年前まで内戦があったのだろうか?15年間も内戦が続いていた国だなんてとうてい思えない

確かに内戦の傷跡はいまだ残っている。壊れたビルディングや壁やシャッターにある弾痕はいたるところにある。しかし、そんな古いビルの近くには、新しく建てられたばかりのピカピカの建物が建てられていたりするので、内戦の傷跡はかえって、この町の復活するエネルギーを浮き立たせるものになってしまう。この街は生命力にあふれているように僕は感じる。

スターバックスでキャラメルフラペチーノを飲み、復興しつつあるダウンタウン、そこにあるヴァージンメガストア。日本と同じ赤を基調とした店内レイアウト。そんななかの視聴コーナーでレニークラヴィッツを聴いていると、ここはいったいどこなんだろう?ふと、自分が今どこにいるのかわからなくなってしまう。ベイルートって中東であることを感じさせないそんなところだ。(昭浩)

ベイルートの町
まだまだ再開発の途中なのにすでに洗練された雰囲気のベイルートの街
 ベイルートの名所?鳩岩
ベイルートの街から見下ろせる鳩岩。ここの夕日はなかなかよろしい

ベイルートからダマスカスへ12月7日

まったく緊張感のない国境越えだった。シリア入国2度目だということもあったし、ベイルート〜ダマスカス間というのは、たいへん頻繁にダイレクトバスが出ていて、ローカルの人々の行き来も激しい路線。国境のイミグレは混んでいて並ぶのに時間がかかるが、出入国は簡単。ひと山超えれば、もうそこはダマスカスなのである。近いけど、ダマスカスはベイルートとは、明らかに違う。洗練なんて言葉は似合わない。アザーンの似合うイスラムの街であった。レバノンではTシャツで過ごせたのに、ここダマスカスではフリースが必要である。しかも、雨が降っていて寒い。なんかじめじめしていていやな感じ。ベイルートとは対象的だ。(昭浩)

ゴラン高原 12月8日

ゴラン高原とは中東戦争でシリアがイスラエルに負けて失った場所だ。そのゴラン高原にクネイトラという町がある。今現在国連管理下にある微妙な町である。意外と気軽にツーリストはその町にいくことができる。
パーミットをとってワゴンバスを乗り継いで向かう。途中から国連職員がバスに乗り込んで一緒にクネイトラまでいくことになる。
クネイトラはゴーストタウンになっていた。バイオハザードというゲームをやったことのある人ならあのゲームのパート3の舞台となった全滅した町を思い浮かべてほしい。あれよりひどいかもしれない。町のすべてが破壊しつくされていた。ベイルートで見た戦争の傷跡は逆に今のレバノンの力強さをそこから感じたが、このクネイトラからは脱力感と虚無感だけを感じる。たまに通る車は、国連の監視車だけだった。(昭浩)

クネイトラ
ぼこぼこに破壊された建物ばかり並ぶ

雨のダマスカス   12月9日

増えた荷物とお土産を日本に送ろうと箱に詰めて、さあ出かけようと思ったら、雨が降ってきた。「明日にしようか」なんて言いながら、朝食を食べていると小ぶりになってきたので、出かけた。
中央郵便局では、2キロまでしか送れない。私たちの荷物はなんと6.7キロ!!箱に行き先を書かれて(もちろんアラビア語で)、訳もわからずそこへ向かった。郵便局のじいさんは、「タクシー、ゴー。セルビス、アンダー、ザ、ブリッジ。」と言う。どうやら、「タクシーでも行けるが、セルビスだと橋の下から乗れ。」と言っているようだ。
橋の下でとりあえずセルビスを待っていたけれど、読むこともできない場所に、どうやってたどり着けるのだろう?同じようにセルビスを待っているおじさんに、聞いてみた。するとおじさんは、「ここで待て」というジェスチャーをして、一緒に待ってくれた。どうやらおじさんはその近くまで行くらしく、一緒に乗って行ってくれた。
セルビスを降りてから、少し歩いた。とてもわかりにくい場所だった。私たちだけだと到底たどり着けない場所だ。いろんな人に聞いて、助けてもらって、やっとたどり着いた。
帰りのセルビスも、とにかくたくさん、いろんな方面行きが通るので、わからん!と思ったが、片っ端から、行き先を叫んでセルビスを止める。運良くマルジェ行きに乗れて、博物館のとこで降りることができた。

博物館は、とても見ごたえがあった。でも展示の仕方がイマイチでわかりにくかった。一番良かったのは、ドゥラ・エウロポスのシナゴーク壁画。壁はもちろんのこと、天井にも色鮮やかな壁画がきれいに残っていた。ざくろとか、魚とか、花とつくしみたいな植物の絵もあった。今回私たちは行かなかった、ユーフラテス川の方にも行ってみたいなと思わせる。他には、パルミラやウガリットからの出土品が充実してた。イラク国境近くの村マリからの出土品もなかなか面白い。ウガリットからビブロスと同じ青銅の兵士が出てきてるのが興味深い。どちらもアルファベットの発祥の地と言われている場所だ。
イスラム教が入ってきた頃から、陶器の色はとても鮮やかになる。ブルー、グリーン、混ざったような色・・・。そして、コーランも展示してあった。

夕方、ウマイヤドモスクへ行った。雨がまた降ってきた頃だった。すでに暗くなってきていて、ライトアップされたモスク、流れるアザーン、祈る人々、とても雰囲気のあるところだった。さすが、世界最古のモスク。(本当かな?)外側の金が入った絵は、とてもきれい。これは、明るい時に見たほうが良かったかもしれない。でも、雨のダマスカスのモスクの姿は、私の心の中に今でも残っている。(映子)

僕はモスクのなかの雰囲気が好きだ。そのなかでもとりわけここウマイヤドモスクのなかは良かった。
モスクのなかというのはガランとしていて基本的になにもなく、このモスクも例外ではない。モスクのなかに足を踏み入れるとそこにはなごんだ空気に包まれていた。そこにいるだけでなんだか身も心も落ち着く。このモスクはいいエネルギーをもっている。
広いモスクのなかで額を床にこするように祈る巡礼者もいれば、横になって寝ている人たちもいる。ピクニックのように家族で輪になって食べている人もいる。昔からモスクのなかはこんなふうだったのだろう。イスラム教第4の聖地は、ゆっくりとした時間が流れていた。(昭浩)

ダマスカスのスーク
ダマスカス旧市街のスーク。400年の歴史があるとか
ダマスカスのウマイヤドモスク
ウマイヤドモスク。柱はローマっぽい。のんびりした雰囲気

ボスラと夜のローマ劇場  12月10日

今日も朝から雨、でも出発だ。バスターミナルまで歩く。思ったより遠い。ダラー行きのバスは、今にも出ようとしてたみたいで、あきちゃんが人波にもまれて見えなくなった時、向こうから叫んでいたらしい。でも私は見えないし、聞こえないからわからない。親切な兄ちゃんが、違う所へ案内してくれて、何とか乗れたけど、二人は険悪な雰囲気になっていた。いつものケンカである。やれやれ。
バスの中で、 眠っているうちにさっきのことなどすっかり忘れ、気づいたらダラー。そこからミニバスに乗り換えて、ボスラへ行った。
ボスラを訪れる観光客は少ないと思う。だけど、ここはかなり立派な遺跡だ。そして世界遺産でもある。特徴としては、ローマ遺跡なんだけど、柱とか、石とか、遺跡全体が黒いのだ。ローマ劇場と、そこに隣接しているお城、なんとその中に泊まることができる。(昔の兵士の宿泊所だったところに泊まることができる)他にもモスクや教会、ハマーム(トルコ風呂)、門、円柱が立ち並ぶ通り・・・。見所がたくさんあった。そして、驚いたことに、その遺跡の一部というようなところに、人が住んでいる。コリント式やイオニア式の、ローマ遺跡の柱を壁の一部にした家がいくつかあるのだ。

この町に観光客があまり来ないのはいいことなのかもしれない。古いコインとか、ポストカードを売ろうとする人がたまに現れるが、人はわりといいみたい。果物屋のおじさんは、最初は高い値段を言っていたが、「お金がない。」と言うとただでハマームのカギを開けてくれた。お菓子屋のお兄ちゃんは、「チキンが食べたい。」と言うとお店まで一緒に来て注文してくれた。

今日のハイライトは、なんと言ってもこのローマ劇場のお城に泊まること。夜、ライトを持って、管理人さんに見つからないように探検した。別に見つかっても大丈夫かもしれないけど、なんとなくこそこそしていたのだ。夜のローマ劇場は、周りが明るいので、ライトなしでもOK。黒い劇場にステージの白い柱が浮き立って見える。もう雨もやんで、空には雲の切れ間から星が見えていた。私は、この日のことを一生忘れないと思う。(映子)

誰もいない夜のローマ劇場は、なかなか神秘的。しかし、夜、誰もいない遺跡を歩くのは、夜の学校を歩くのより怖い。一人じゃ絶対いけない。(昭浩)

ボスラの宿のローマ劇場
ローマ劇場。なかなか立派。月明かりだけの夜の劇場もロマンチック
 世界遺産ボスラの街
ボスラの街並。遺跡だけど人も住んでいる。黒っぽい石で作られている
 ボスラの住む人々の家
ボスラにある人の家の壁。遺跡である柱も使われている
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