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タイ旅行記

シェムリアップからバンコクへ  3月12日

ラオスを旅していたとき、メコン川の向こうのタイの国を眺めては、「このまま“ボッタクリの国ベトナム”に行かずに“安らげる国タイ”に入りたいなあ」、心のなかでは、よくつぶやいていたものだ。ようやくそのタイのバンコクに行ける。
そんなタイへの思いとうらはらに、国境通過はあっけなかった。ふつうなら手前の国のボーダーと向こう側の国のボーダーとの間には緩衝地帯みたいなのがあって、5分〜10分くらい歩くかまたはピックアップトラックなんかで行くのだが、ここの国境は10メートル程歩くとすぐにタイ側のイミグレがあったりするのだ。いつもなら、その緩衝地帯を車で通ったり、歩いたりするときは、自分の頭の中には世界地図が浮かび、その国境に今自分はいるんだ、と感じ、そんな思いをかみしめながら行くものなのだが、今回はそういう暇もなく、きょろきょろしながら歩いているうちにタイ国内にはいってしまった。

 13年ぶりのカオサンロード。もちろん13年前の記憶はあやふやでよく覚えていないが、そのときは、もっと妖しい雰囲気が漂っていたと思う。その妖しさに戸惑いながら、このカオサンを歩いていた気がする。今は、ギラギラした派手で明るい繁華街。学生の帰国ラッシュ時期ともあって渋谷のセンター街のようであった。
センター街のなかを大きなバックパックを背負って宿を探す。ウロウロ、ウロウロ。そのネオンと人の多さに圧倒されて、ゲストハウスの看板を見逃しまくっていたらしい。長いバスでの移動で、疲れてヘトヘトだった映子は、どうしたいのかよくわからないその僕の行動につきあわされて、機嫌が悪くなった。本当にわけのわからない僕のウロウロぶりに映子がキレる。
「こんなことなら、あきのじちゃん(僕:昭浩のこと)に(宿探しを)任せなきゃよかった。」
僕も少し気が立っていたので、逆ギレ。
「えいのじちゃん(映子のこと)は、いつも口で文句言うだけで、なんにも自分では行動しないじゃん」
「・・・」
「・・・」
 結局、ラオスで会ったイスラエル人ロイの薦めていた宿に行くことにした。はじめからそうしておけばよかったのだ。
宿に荷物を置いた後、西洋人の好きそうなレストランに入って、少し高かったが、おいしいものを食べた。お腹が満たされたら、ふたりとも気が立っていたのもおさまった。だいたいお腹がすいている時って、よくけんかがおこる。
それにしても
「アイ リコメンド ユー!」
と力をこめてその宿を薦めていたロイに言いたい、
「この宿のどこがいいんだ?」
彼の薦めた宿は、値段は安くもなく、しかも窓もない独房のような部屋だった。(昭浩)

カンボジアとタイの国境付近は、話に聞いていた通り、怪しげな雰囲気が漂っていた。日が照っていてめちゃくちゃ明るくて暑いのに、そこは暗い感じだった。何人もの男たちが、荷車にうずたかく荷物を積み上げて、それを押していた。物乞いの子供たちもたくさんいる。タイに入ると、とたんに道も庭もなんだかきれいだった。そしてバンコク行きのバスは、寒いくらいに冷房が効いていた。
 カオサンロードは、欧米人が多くて、もうほとんどどこの国か、わからない状態だ。タイ人はどこにいるの?ここは、本当にタイなの?と思った。(映子)

タイとカンボジアの国境
カンボジア側から見た国境

旅行代理店にて  3月13日

今日は、すぐにやらなければならないことがある。映子の一時帰国のためのエアーチケットを買うことだ。23日友だちの結婚式になにがあっても出席しなければいけないのだ。
あと、帰国日が決まらないとタイでの予定もたたない。とにかく飛行機の予約をしないことには、何もできない状況なのだ。
 カオサンで日本人が経営しているMPツアーにチケットを買いに行った。1時間くらいMPのおじさんがいろんなところへ電話をかけてくれたおかげで17日のシンガポール経由の便がとれた。MPおじさんは、チケットがとれて、僕ら以上に安堵したようだった。一生懸命席をとってくれたMPおじさんには、本当に感謝している。

 帰国日までの間にアユタヤとカンチャナブリを観光することにした。僕は、カンチャナブリに泊りがけで行きたかったのだが、時間の都合とツアーに含まれているバンブーラフティングもなんか気になるので、旅行代理店のツアーでいくことにした。
 ある旅行代理店にいた日本人の店員は、やる気がないのか商売が下手なのかよくわからないが、カンチャナブリのツアー概要が英語で書かれていた紙を広げてみせるだけで、何も説明をしてくれない。せっかくの日本人スタッフなんだから、日本語で説明してほしいところだが、オフィスの中は沈黙の時が流れるだけ。
「戦場にかける橋のところには行くんですか?」
「それ以外にどんなところ行くんですか?」
仕方ないので、こんな調子でこちらから質問することにした。
カンチャナブリツアーに申し込んで、ついでにアユタヤツアーについて聞いてみた。するとまた同じような対応で、英語で書かれたパンフレットのコピーを広げて見せるだけ。「地球の歩き方」をカバンからひっぱりだして、ひとつずつ指差しながら、
「ここは、ツアーで行くんですか?ここは・・・」
てな調子でチェックしていく。アユタヤといえば必ずでてくる、木の根っこに取り込まれた仏像の頭の写真を指差して、同じように
「ここも行くんですよね?」
と聞くと、
「なぜか、ここは行かないんですよねー」
「・・・」
 なぜ、いかないのだ。その場所こそ、僕の中の「ザ・アユタヤ」なのに・・・。そして、なぜこの人は、そんな大切なことをひとごとのように話すのだ。
僕たちは、そこでカンチャナブリツアーを申し込んだことを少し後悔しながら、すみやかにその店をでた。自分が薦められないツアーをなんで売るんだろう?もし自分の薦められる商品ならもっと積極的に売って欲しい。軽い怒りを覚えて宿に帰っていったのだが、その日は水ゲリで寝込んでしまった。(昭浩)

カンチャナブリツアー  3月14日

 昨日、申し込んだことを少し後悔したカンチャナブリツアー。ツアー自体はたいしたことないのだが、映画「戦場にかける橋」の舞台、「死の鉄道」が良かった。大日本帝国とタイが捕虜などに過酷な労働させ多くの犠牲者を出して敷いた線路の上を走る鉄道だが、そんな過去は忘れて、車窓の風景を楽しめる。一応ツアーなので、それ以外にも死の鉄道の博物館にいったり、そこで犠牲になった人の墓地にいったり、滝を見に行ったりと盛りだくさんの内容だった。しかし、バンブーラフティングは、ゆるやかな流れの川をたった200メートル程、しかも、瀬のない、特別きれいなところじゃないところを下るのでまったくつまらない。ツアー料金を上げるためにとってつけたようなものだ。エレファントライディングもなんにもないところを20分くらいぶらぶらしているだけなのでだんだん退屈になってくる。
 僕は、このカンチャナブリツアーに参加して、自分の旅のスタイルに疑問をもちはじめた。ツアーに参加すれば、簡単に観光はできる。でも、それでいいのだろうか?一応それで、その観光地は“おさえた”ことにはなるんだろうが、それは、自分の求めているものなんだろうか?手足、頭、心を使った旅がしたい。それは、いかにたくさんの観光地をまわるかってことじゃないんじゃないか。人は、全てを見ることはできないし、全てを手に入れることもできない。自分の欲するものを選択していかなければいけない。それは、同時にそれ以外をスポイルしていかなければいけないこと。だからって、どうしていけばいいのか、まだはっきりとはよくわからない。そんなことを考えていた。(昭浩)

 カンチャナブリツアーは、私にとっては、全体的に楽しめたツアーだった。共同墓地は、あまりにきれいに整備されていてリアリティはなく、それとは裏腹に博物館は、そこにある絵でさえもリアリティがあり、エレファントライディングとバンブーラフティングはとってつけたようだった。ツアーの内容よりも、そこで、私と同い年の英子(ひでこ)ちゃんと出会えたこと、そして、他のツアー参加者と少しだけれど話ができたことが一番の収穫だったと思う。(映子)

戦場にかける橋の舞台
戦場にかける橋の舞台
崖っぷちを走る「死の鉄道」
崖っぷちを走る「死の鉄道」

バンコク観光 3月15日

13年前にバンコクに来たときは観光らしい観光はしなかった。どうしてしなかったかって?それは、そのときはあまりしたいと思わなかったからだ。一人旅のときって、あまり興味のわかないお寺や王宮みてもつまらないし、疲れるだけなのだ。今回は二人なのでその時とは少し違う。一人で遊園地に行く気がしないけど二人なら行く気がするのと同じように、ワットプラケオと王宮にはせっかくだから行ってみようという気にもなった。しかも映子は、王宮やお寺、彫刻、絵など見るのが好きなタイプなので、いっしょに見て、横で感動していたり、興味深げに眺めている姿を見てたりするとこちらまで感化されて、興味深いものに思えてくるものなのだ。また、その後、どこがよかったか、どこがいまいちだったか、感想を言い合うのもそれはそれで楽しいものだ。
 ワットプラケオは、これまで訪れたワットのなかでもひときわ派手できらびやかだった。僕たちがそこで歩いていると、若い日本人の男の子ふたりが、声をかけてきた。
「エクスキューズ ミー」「ピッ ピクチャー」(シャッターを押すジェスチャーをつけて)
 「いきますよ。ハイ チーズ」といって写真を撮ってあげたら、
「ありがとう・・っす」と言って照れながらその男の子たちは立ち去っていった。
タイ人にタイ人と間違われることはあっても、日本人にタイ人と間違われたのは初めてである。
 その後、ワットアルン(暁の寺)に行った。ここは、13年前にも来たところだ。そのとき登れたワットアルンは上に登れなくなっていた。ワットアルンの上のほうに腰掛けて、川向こうに見えるバンコクを少し上から見下ろしながら、ボーっとしたものだったが、それも今ではできない。僕が覚えている数少ない場所なだけに少し残念だ。(昭浩)

 ワットプラケオには、エメラルド仏がある。それは、今まで歴史の中で、もともとタイにあったのがラオスに持ち去られて、また、タイに戻ってきたとか、その他にもいろんな逸話のあるエメラルド仏なのだ。でも、そう思って期待していったけれど、たいしたことはなかった。というとタイの人に怒られるかもしれないけれど、カンボジアで見た、エメラルド仏のような、感動と言うか、何か感じるものはなかった。ただ、エメラルド仏が、金色の服を着ているなあと思っただけだった。そして、お寺は、めちゃくちゃに派手だった。タイの人は派手好きなのかなあ。きんきら、きんきら、まぶしかった。(映子)

バンコク・ワットプラケオ
まぶしい!派手なお寺ワットプラケオ
バンコク・ワットアルン
数少ない思い出の場所ワットアルン

アユタヤ 3月16日

 カンチャナブリのツアーで出会った、英子(ひでこ)ちゃんとアユタヤへ行った。カンチャナブリはツアーだったため、だんな(昭浩)は不満だったようなので、今回は自分たちで行くことにしたのだ。
 電車でアユタヤまで約1時間、2人とも朝から気持ち良さそうに寝てる。着いたときには、私が急いで二人を起こして降りた。駅前のレンタサイクルで自転車を借りて、出発。暑さますます厳しくなる中を、風を切って走った。
 最初の目的地は、ワット・ヤイチャイモンコン。ここは、「ザッツ・アユタヤ!」と私が思う景色だった。高い仏塔の周りに、たくさんの仏像が並んでいる。黄色い布をまとっった仏像は、似てるけれど、それぞれ顔が違う。くっきりと目を書いてあるものもある。おもしろい。目が飛び出そうなものもあった。次は、大仏のあるお寺。そして、少し走って、ワット・プラマハタートへ。ここは木の中に仏像の顔が埋もれている。だんな(昭浩)の「ザッツ・アユタヤ!」だ。でも、それだけじゃなくて、建物の跡が広範囲にあった。首の取れた仏像がある。壊れた建物の跡がある。アユタヤはそういうのが多い。ビルマとの戦いが激しかったのと、国が滅びてしまったというのもわかる気がする。
 もう1つの大仏寺と建物の跡、そして3人の王の墓を見た後、大空のもとに横たわる寝仏を見た。黄色い布がとてもきれいでまぶしかった。線香とハスの花のつぼみを使ってのお参りの仕方を、ちょうどH.I.Sのツアーの人たちがいて、添乗員が説明してたので、英子ちゃんはまぎれてやっていた。最後にクメール様式の遺跡を見て、今日の予定は全て終了。帰りの時間は余裕だと思っていたのに、私の自転車のチェーンが外れて、ぎりぎりになってしまった。いろいろ盛りだくさんの楽しい一日だった。(映子)

タイ、アユタヤのワット・ヤイチャイモンコン
ワット・ヤイチャイモンコン
タイ、アユタヤのワット・プラハマタート
ワット・プラハマタート
アユタヤの寝仏
いい顔してるアユタヤの寝仏
アユタヤのクメール様式のワット・チャイワッタナラーム
アユタヤのクメール様式のワット・チャイワッタナラーム

映子一時帰国の日 3月17日

 今日は、映子一時帰国の日。朝7時のバスで空港に向かった。これまで、ずっとふたりで旅してきて、急にひとりになると心細い。話相手がひとりもいないのだ。ずっといっしょにいると、見てるだけでイライラしてくることだってあるのに、ケンカすらできないのってやっぱりさみしいものだ。ひとりになったので、その日、宿をかえた。新しい宿に移り終えるとすることがなくなった。まずは、メールチェック。お昼を食べて、またインターネット。バンコクでは、やることがない。ごはんのときだけが楽しみだ。そうして、この日は、とくになにをするでもなく過ぎていった。こんな風に必要以外のことは、誰とも話をせずにこれから暮らしていくのだろうか?(昭浩)

ワットポー マッサージスクール 3月18日〜3月22日

 ワットポーマッサージスクールに入校した。その学校は伝統あるタイ式マッサージの総本山ワットポーがやっている学校で、そこを卒業するとタイでマッサージのお店が開業できる資格を与えられる。なぜ、マッサージの学校なんかにいったかというと、単にヒマだったからだ。映子が帰国している1週間という中途半端な時間やることがないのだ。あと僕自身マッサージが好きなので、タイ式マッサージというものを学んでみたかったというのが主な理由だ。
  ワットポーマッサージというのはどういうものか?普通のマッサージがいわゆる筋肉をほぐしたり、ツボを刺激して体の改善をはかるといるものに対し、ワットポー式マッサージ(ベーシックマッサージの場合)の目的は、血液とリンパ液の流れをよくするためのマッサージである。だからゆっくりじわっと押す、あまり痛くないが気持ちいいだけのマッサージとも違う。僕はスクールに入る前にワットポーで実際にマッサージを受けてみた。マッサージ後、体が軽くなり、とくに首から肩にかけてこりがとりのぞかれたようだった、そんな体スッキリ感を強く感じた。そして、講習中もプロでない下手な講習生のマッサージを受けていても、終わったあとは、体の力がすっかり抜け、講習の終わった夕方なんかは、毎日眠くて仕方がなかった。下手なマッサージでも効果があるのだ。タイ式マッサージ恐るべし、と眠い頭で思ったものである。
 手続きは簡単だった。朝8時半に受付に行くと申込書を渡されるので、それに記入して、自分の写真と受講料7000バーツ(21000円、ただしタイ人はその半額)を渡すだけ。すると、マッサージのやりかたを図とタイ語、英語、日本語で解説されたテキストと学生証を手渡される。そして、布団8枚くらい敷けるフローリングの教室みたいなところに案内される。
教室では、マットを敷いて、そこでふたり一組ペアになって、ひとりは練習台、ひとりは実際にマッサージを施す。はじめは、全然わからないから、先生がやりかたを示す。あとは、それをまねてやる。わからないところがあれば先生に聞き、間違っていることをしていたら、先生が指摘する。その繰り返し。テキストはほとんど使わない。テキストは卒業した後わからなくなったときに確認のために使うもののようだ。だから、学科講習はない。先生はカタコトの英語、例えば、「スローリー」とか「ゴー&バック」しか話せないのだが、基本的に見よう見まねでやることなので、言葉が通じなくても全然問題ない。
 クラスは9時に始まる。昼休みの後午後4時まで、1日6時間を5日間、計30時間で卒業。午前だけ、午後だけというのもOKで、都合のつく日だけっていうのもOK。とにかく30時間レッスン受ければだれでも卒業できる。
  僕のクラスは、タイ人の女性半分にアメリカ人、途中からスイス人も入ってきたりしたが、だいたい6〜7人。みんなでワイワイとタイ語と英語と日本語(タイ人の受講生のなかに昔日本のパブで働いていた人がいた)入り混じっておしゃべりしながらやっている。先生も3時ごろになると、どこからかミカンやら名前の知らないフルーツなんかをもってきて、マッサージを施している僕の口に入れてきたりする。とにかく、和気あいあい家庭的雰囲気の中での講習だった。また、練習台としてマッサージを受けている時は、気持ちよくて、眠ってしまいそうになる。しかし、下手な練習生にやられると、痛くて眠れない。講習の半分は、マッサージを受けているだけだから、1日はあっという間に過ぎてしまう。
 ワットポー式マッサージは一通りの流れと押すポイントが決まっている。そのなかには、かなり局所に近いところもあって、女性の講習生なんかにマッサージするときは、はじめ緊張してしまったものだ。「えっ ここも押すの?」って感じ。別に変な気になったりするわけじゃないんだけど、慣れないうちは少しはずかしい。けど、そういう気持ちが相手に伝わっちゃうとますますお互いやりにくくなるので、そんな時は、「ツボツボツボ・・・」って念じて押すことに集中するしかない。逆の場合はもっと困る。男性諸君には多分理解していただけると思うが、別にヘンなことを考えているわけじゃないのに反応しちゃう時があって、「おさまれ、おさまれ」って命令しても、意識すればするほど、状況は自分の命令とは違う方に向かう。この時は気まずい。マジで気まずい。1回だけ危ない場面があったが、ちょうどピンチだった時に仰向けからうつ伏せに姿勢が変わったので難は逃れた。
 講習のあった5日間は、毎日楽しかった。それだけに、卒業の日は、とてもさみしかった。そしてお世話になったスンニー先生は、卒業してもいつでもマッサージの練習しに来ていいから、と言ってくれた。バンコクには帰れるところがある。それはうれしいことだ。(昭浩)

ワットポー マッサージスクール
講習中の様子
ワットポー マッサージスクール
卒業の日、クラスのみんなと

出会いの広場 3月23日

出会いとは不思議なものである。ひとりになってさみしくなっていると、いい出会いが待っているものだ。
 映子が一時帰国した後、ひとり孤独な夜を過ごした。その次の朝、ワットポースクールの手続きをしていると、ちょうど僕の前に手続きをしている日本人がいた。彼、鈴木君とはクラスは違ったものの妙に気が合い、毎日彼と夜ビールを飲んでいた。そういうこともあって、映子が帰国した後、すぐ引っ越した宿をまた引き払って、さらにチープな鈴木君が泊まっている「出会いの広場」のドミトリーに移動した。それが昨日の話。そこでは、韓国人の青年ジョンとパーク、シンガポーリアンのレスリーと同じドミトリールームになった。レスリーが今日の夜の電車でチェンマイに行くというので、みんなでごはんを食べに行くことになった。いっしょにごはんを食べにいったのは、そのときがはじめてだったのだが、みんなとやたら気があった。同じアジア人なので西洋人より親近感がもてるし、西洋人より理解しやすい気がした。(西洋人のなかでももちろんいい奴はいっぱいいるし、理解しあえる人もいっぱいいるのだが、この時は、とにかくそう思ったのだ。)レスリーを見送ったあと、宿で僕と鈴木君、ジョンとパークでビールを飲みながらいろいろなことを話した。漫画のこと、食べ物のこと、経済のこと、政治のこと、宗教のこと、対日感情について・・・いろんなことを話した。いろんなことをお互いわかりあえて、なんかとてもうれしかった。それから、映子が日本から戻ってきて、僕らがチェンマイにいくまで、毎晩、彼らと楽しく過ごしていた。友達ができるとバンコクも楽しい。さすが、「出会いの広場」である。(昭浩)

バンコクの宿の下のレストランにて
宿の下の韓国レストランで

バンコクのパソコンビル「パンティッププラザ」  3月24日

 ひとつのビルにパソコン、周辺機器、部品、ソフト、VCD、とにかくパソコンに関するいろんなショップが5階建ての大きなビルのなかに入っている、そこがパンティッププラザだ。このなかで驚いたのが違法コピーソフトが堂々と売られていたことだ。バンコクは、著作権に関する取締りが厳しくなってきていると聞いていたので、これは、意外であった。ウインドウズXP日本語ヴァージョンもある。アドビのソフトがたくさん、例えば。フォトショップ、ゴーライヴ、イラストレーター、ライヴモーション、その他もろもろ10本入りで1枚150バーツ(450円)、あとマクロメディアのソフト盛りだくさんてやつもあって、どれも1枚150バーツ。ゴーライブとフォトショップふたつで10万円近くかけたのがばかばかしくなってしまう。(昭浩)

映子バンコクへ再び 3月25日

 今日は映子が日本から戻ってくる日だ。といっても、バンコクに着くのは、夜の9時半。それまで、ヒマなのでチェンマイ行きの列車のチケットを買いに行った。
 駅に着くと、ツーリストインフォメーションがたくさんある。それらは、いわゆる旅行代理店で、ツーリストインフォメーションだと思って、そのデスクにいろいろ尋ねたりすると、いつのまにかその旅行代理店でチケットを買わされるハメになっているという仕掛けのようだ。でも普通たくさんツーリストインフォメーションがあったらあやしいと思うよなあ。僕は、ちゃんとした駅のチケット売り場でチェンマイ行きのチケットを買ったが、バスに比べてやはり高かった。でもバスと違って横になって寝れるからそれでいいのだ。
 夜、空港に映子を迎えに行った。一週間ぶりである。空港ロビーで久しぶりに見た彼女は、とても新鮮に映った。一週間前までは、24時間5ヶ月間ずっといっしょだったので、ちょっとしたことで、いろいろ腹を立てていたのだが、たった一週間離れていただけでフレッシュに感じた。たまには、離れてみるのも大切なことだ。
 空港から宿に戻った後は、バースデーパーティだ。ジョンと僕と、北大の大学院生と3人のバースデーが3月下旬に集中していたのだ。その日も大いに盛り上がり、宿で働いているギーには、ケーキのプレゼントを頂いた。あと映子が日本から持ってきた明太子と和歌山の梅干は、みんなに好評だった。明太子は韓国にもあるらしい。気の合う仲間といっしょに楽しい時間を過ごす、とても幸せなことだと思う。その気の合う今日のメンバーが、またこのように全員集まることは多分二度とないだろう。誰もがそれは、無意識のうちに理解している。そのパーティが楽しければ楽しいほど、心のなかでは、せつない感情が出てくる。(昭浩)

チェンマイへ 3月26日

 12日もバンコクにいた。この旅で同じ場所の滞在日数最高記録である。移動するのは正直めんどくさい。バックパッキングもやる気もおこらない。よく長い期間、同じ場所に滞在することを「沈没」というが、沈没する人の気持ちも少しはわかる。12日でこれなんだから、1ヶ月2ヶ月同じ場所にいたら本当動けなくなるだろう。
 夕方、ジョン、パーク、鈴木君と別れを告げて、チェンマイに向かった。(昭浩)  

チェンマイ到着 3月27日

 タイの寝台車は、快適であった。中国の寝台車は、日本のブルートレインと同じスタイルだが、タイ式は少し異なる。まず、はじめ、一人席が向かい合うように、左右両側にイスが並んでいる。日本の電車のボックスシートをちょうど半分に切ったような形だ。そうすると通路が広すぎてしまうんじゃないかと思われるが、そこは、バックパックとかがおける鉄製の棚になっている。最初、列車のなかに入った時、一人席がずらりと並んでいる車内を見て、どうみても寝台車には見えなかった。寝台車を予約したのにどうして寝台車じゃないんだ、と駅員に確認したくらいだ。夜9時ごろになると駅員がやってきて、ベッドメイキングがはじまる。向かい合った一人席二つ分がシートをずらして、一人用ベッドに早変わり。頭上の引き出しみたいなところから、上段のベッドを引き出して、もう1人分のベッドもできあがり。それにシートをかけて、カーテンをかけて終了。ちょうど進行方向に頭を向けるかたちで寝る。広さはタテもヨコもゆったりとしていて、とてもよく寝ることができた。

着いたその日は、なにもすることがなかった。お寺めぐりをしようと思ったがひとつまわったところでやめた。チェンマイ式マッサージのお店でマッサージを受けて宿に戻り、その日はだらだらとして過ごした。そんな日もあるものだ。(昭浩)

 チェンマイ行き寝台車の2段ベッド
寝台車の2段ベッド

チェンマイトレッキング 3月28日 29日

チェンマイトレッキングの悪口を言おう。訪れたモン族の村は、別にモン族が民族衣装着ているわけでもないし、モン族には、ラオスでさんざん会ってきたので今さらって感じであまり感動もなかった。エレファントライドにしても、それは、象に乗りながら山道をとおり川を横切る、なかなか楽しめるものではあったものの、象に乗っているすぐそばには、アスファルトでできた道があり、車がエンジン音をたてて通りすぎていく。「大自然の中を象に乗っていく」これぞエレファントライド!と思っているので、象を追い抜いていく車っていうのには、ちょっと納得いかないものがある。
 でも、ここには、僕が少し忘れていた懐かしい楽しさがあった。トレッキングの途中に寄った、ちょっとした滝とその下にあるウォータープール。滝といっても高さ1mくらい。つるつるとなめらかな石の上を水が滑り落ちている。水着に着替えて、そのミニ滝によじ登り、滑り台のように滑ってウォータープールにザブーンと落ちる。昔、僕が小さい時、大阪郊外にある摂津峡というところに、両親に連れて行ってもらったことがある。そこも滑らかな石の上を水流が走っていた。そこを滑り落ちたかどうかは定かではないが、そこで遊んでいた時の記憶を思い出させる。小学校に入る前の記憶で覚えている数少ないもののひとつだ。昔の記憶をなぞるように何度も何度もその滝を滑った。
 もうひとつある。夜、みんなでカレン族の村の家に泊まる。その時、みんなでいろんなゲームをやる。ピンポンパンゲーム、あと名前は知らないが、昔キャンプや「青少年の家」という公共のログハウスにクラスのみんなと泊まった時なんかによくやったゲーム、それをみんなでやるのがおもしろい。バツゲームでは歌を歌う。お決まりだ。僕は、楽しいことを常に探し続けているような生き方をしてきているんだけど、楽しいことって外にだけあるもんじゃなくて、自分の中の楽しむ心が創り出すってことも忘れちゃいけないんじゃないかって、カレン族の村からの帰りの道中ずっと考えていた。
 2日目は、山の中のカレン族の村から戻る途中、案内するアシスタントガイドが道に迷って、しかも1回だけでなく2度3度、道を間違い、最後には、道で会った地元のおじさんに50バーツ払って、ガイドしてもらう始末。
 「ガイドがガイドを雇ってどうするんじゃ」
とあきれるものの、正直それで少し安心したのも事実。2時間かかるところを5時間もかかって、しかもほとんどの人は水をきらして、全員みな消耗しきって下山。あやうく遭難するところだった。
 しかし、その後の竹を組み合わせて作ったイカダで川を下るバンブーラフティングは、ほどよく水しぶきがかかり、ちょっとしたスリルもあってかなり楽しめた。悪口もいいたくなるが、僕にとっては、小さい時の夏休みと同じ薫りのする、トレッキングツアーであった。(昭浩)

 トレッキングのメンバーはほとんど日本人だった。男性5人とカップル1組と、私たち、そして韓国人の女の子が1人。夜ゲームをしているうちに少しずつみんな仲良くなってきて、2日目に、2泊3日の男性3人と別れるときもなんだかさみしい気がした。私たちが見えなくなるまで、3人遠くで手を振っていた。そして、道に迷ったとき、みんな水が少なくなってきてるのに、韓国人の女の子が水がなくなったので少しずつ分けてあげて、着いたときには全員の水がなくなっていた。
 印象的だったのはガイドのサックの話。彼自身もカレン族で、カレン族への援助をしてるわけだけれど、「お金や食べ物を与えるよりも、ペンと紙、教育を与えていきたい。」と言っていた。中国のことわざみたいなので、「魚を与えるよりも魚のとり方を教えて」ということを言っていた。彼はカレン族として生まれてきたことに誇りを持っている。そして、ミャンマーにも、カレン族がいっぱいいて、親戚も多いらしい。けれど、ミャンマーは軍事政権だから、平和になったら行って欲しい。と言っていた。私もそう思っていたので、サックの話には納得できた。ミャンマーはいい所かもしれないけれど、今観光で行っても、軍事政権を潤すだけなのだ。だから私は、今は行こうとは思わない。(映子)

チェンマイトレッキング・エレファントライド
エレファントライド
チェンマイトレッキング
ミニ滝をすべり落ちる瞬間
チェンマイトレッキング
泊まったカレン族の村
チェンマイトレッキング
山中をトレッキング

スコータイ 3月31日

 スコータイは、世界遺産にもなっている遺跡であるが、それは、単に遺跡というよりは、遺跡のあるきれいな公園だった。美しい芝生のグリーンのなかにスコータイ王朝時代の遺跡がある。ゴルフ場のコースのなかに遺跡があるようにも見えるし、映子は、「ハワイのアラモアナ公園みたい」だと言った。なるほど、たしかに、「この木なんの木〜」の木もある。その公園のなかを自転車でまわる。遺跡見物というより、サイクリングコースの途中に遺跡を見る、そういったほうがただしい。楽しいサイクリングであった。
 その日の夜、めずらしいものを見た。お葬式である。宿の近くのお寺の住職のお母さんがなくなったらしい。その住職は、かなり偉い僧侶であるらしい。ストゥーパの形に組み立てられた大きなやぐらに、たくさんの電飾が飾られていて、そのてっぺんに棺おけが置かれている。しばらく、そのとなりの仮設舞台でアプサラみたいな踊りを踊ったあと、てっぺんの棺おけの下に火をつける。大勢の人の前で棺おけは火に包まれる。やぐらのまわりのお坊さんは一斉にお経を読み始め、さらには、打ち上げ花火があがる。このあたりからだんだんエスカレートしてきて、ナイアガラの花火、ねずみ花火がそこらじゅうで回転しながら火を噴きながら暴れだし、ドラゴン花火の火花の大きい奴が次々を火柱をたて、やぐらのまわりに仕掛けてあった、ありとあらゆる花火が火を噴き始めた。これは、楽しめたモンじゃなく、避難しないとやけどしてしまう。最後には、強力な爆竹がバンバン鳴り出す。普通の爆竹の50倍くらいの威力。耳をふさがないと鼓膜がやられてしまう。爆竹の振動が体に響く。約10分、その恐怖の時間は、続いた。その間も棺おけは、炎に包まれていた。日本では、こんな派手な演出はありえない。消防法にもひっかかる。貴重な体験だとは思うが、もう二度とはごめんである。(昭浩)

 スコータイは、「遺跡のテーマパークだ」とだんな(昭浩)が言った。公園の中に遺跡がある。廃墟の中にも、芝生が生えていて、きれいに手入れされている。緑の中に池があって、遺跡があって、すごくいい感じのところだった。でも、私は結構暑さにやられてバテ気味だった。
 その夜見たお葬式にはびっくりした。こんなに華々しい、人の一生の最後を、私は今まで見たことがなかった。私もこんな風に派手に一生を終えたいなと最初は思ったけれど、やっぱり私は、好きな人1人だけにみとられて、ひっそりと人生を終えるほうがいいかな。(その分人生は派手にしたい)なーんて考えていた。(映子)

スコータイ遺跡
タイ初代王朝スコータイ遺跡
スコータイ遺跡
池と緑に囲まれた遺跡。日中はかなり暑い

スコータイからバンコクへ 4月1日

今日は移動日。スコータイからバンコクへ移動だ。バスにいくつかクラスがある。僕たちはファーストクラスのバスを選んだ。バスには、お弁当がつき、ドリンクサービスがあり、途中のドライブインでごはんが食べられるミール券というものまでついている。さすが、ファーストクラスである。しかし、バスのなかで出される飲み物には、睡眠薬がはいっていて、眠っている隙にお金を取られるというケースが増えているので、注意するようにと、「地球の歩き方」にのっていたので、僕は、バスでサービスされた飲み物には手をつけなかった。映子は、「どうせ、やられるときは、やられるんだ」といってグビグビ気にせず飲んでいた。僕はすごく警戒していたわりに、不覚にもしばらくしてからバスのなかで爆睡してしまい、映子からは、「睡眠薬もいれてないのにこれだけ熟睡してたら、睡眠薬強盗もびっくりだよ」と言われる始末。結局ふたりとも、バスのなかではよく眠った。
バンコクに着いて、また「出会いの広場」へ戻った。一週間前、そこに泊まっていた人はみんなチェックアウトしていた。それぞれ、行くべきところへ行ったのだろう。とてもさみしい気持ちになった。自分だけがそこに取り残されたようだ。彼らと過ごした想い出のかけらだけが、そこに残っていた。(昭浩)

バンコクでの再会 4月2日

夕方、一ヶ月前にホーチミンシティで出会った倉光くんと久保田くんに会った。彼ら二人とは、ホーチミンの宿で隣のベッドになったので知り合った。ちょうど同じ時期バンコクにいるようだったので、メールをやりとりし、待ち合わせをしていっしょにごはんを食べにいったのだ。メールって便利だなあ、とつくづく思った。出会った旅人どうしが連絡しあえるんだもん、便利な世の中である。
彼らとは、ひとまわり以上年が離れている。彼らは、僕の好きなヴァン・ヘイレンを知らない、そういう世代なのである。 それでも、その夜は楽しかった。そのジェネレーションギャップがまた楽しいのだ。
「最初に買ったレコードは?」
「レコード?最初に買ったCDは・・・」
 屋台で買ったやきとりをつまみに、ビールを飲んで、こんな会話で盛り上がった後、久保田君だけは、深夜の便で日本へと帰っていった。旅先で出会った人たちがどんどん帰国していくと、また取り残された気持ちになる。学生の旅行シーズンも終わり、カオサンもだいぶ落ち着きはじめているように感じた。(昭浩)

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